名づけの宴の際、参加しているもの達は自分達が金を払ってきてやっているのだから、顔ぐらい見せろ、としつこく翁にせまりました。
自分のための宴は、何が祝いなのかもわからず祝われ、さらにそれに参加も出来ず、同時に祝われたたくもないもの達かから祝われるという全く理解不可能な状況に、彼女は逃げ出してしまいました。
想像も出来ないほど穢れた存在達に出会い、彼女はこの世界の姿、見たくもないのに、結果として見なければいけない姿を見る事になり、深く深く傷ついたのです。
私には、これが痛いほどわかります。
小さいときからずっと恐れを感じ続けていたそのものの姿です。
彼ら卑しき者たち、穢れた者たちは、この世界のどこにでもいます。
彼らは非常に珍しい存在でもなければなんでもありません。
こうやってこの映画をみることで、それは非常にグロテスクな装いに感じられますが、彼らはいつだって、どこにだっているありふれたものたちです。
そこら中にいるのです。
この世界は、彼らのような存在達がほとんどであるがゆえに、それが異常と感じられず、いまや完全に正常な感覚が麻痺してしまっているのです。
彼らと接触する事で、私たちは私たちの本性を忘れていきます。
彼らと接触する事で、私たちはどんどんと穢れていくことが可能になり、そして、私たちが誰であったのかを忘れていくのです。
彼女もまた、命の豊かさと切り離された生活を余儀なくされ、イメージとしての高貴さという枠組みに強制的にはめ込まれ、穢れきった者たちと接触する間に、自分自身の本性、つまり自分自身が誰なのか?何のためにやってきたのか?といったことを忘れてしまっていたのです。
私たちが忘れてならないのは、この世界はこのような場所なんだ、ということです。穢れた者たちに接触し続けることが一体何をもたらすのか、ということについての明晰さを失ってはならない、ということなのです。
この物語は、この映画はそのために語られている、ということがあり得るでしょうか?私には、それしか感じられないのです。
(つづく…)
【レベル】:ホワイトクラス~ユニティクラス
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