※このページは、テキストの『ワンネス体験とその位置づけ』計4回分を一まとめにしたものです。(テキストで追いかけると見づらいため)
さて。今回は、いわゆるワンネス体験について触れていきます。
まず最初に、このテキストは(他も同様ですが)、一方を持ち上げ、他方をこき下ろすための内容ではありません。
ここでの狙いは、他のテキスト同様、何が妨げになっているのかを見極める事、そしてそれに対していかに心を開き、上昇することを望む事が出来るか?ということにあります。
さて、このワンネス体験という単語は、このサイトに訪れた方であれば、聞いた事があるかもしれませんが、簡単に言えば、これは、「全てである」というような体験を通り抜けることをいうようです。
たぶん、このような体験をしている人は、例えばこの日本という社会においても、ごくごくわずかしかいないのではないでしょうか。
なぜかというと、このような体験はかなりのインパクトがあるため、それを体験すれば、通常であれば、誰かに伝えたくなるからです。
で、私自身、幼稚園から始まって、会社に勤めたりする一般社会的な生活の中で、このような体験をしたという人にあったことがありません。
友達には一人もいませんでした。
ですので、たぶん、本当にごくごく少数の人がこのような体験をしているのではないかと思います。
ただ、一般社会的な生活の中ではなく、ギブアップの会をやるようになってからもそうですし、それ以前にも、わりとワンネス体験をした、という人に会ってきました。
このような仕事に携わっているからか、結構、お会いしているほうなのではないかと思います。
そこで、ワンネスを体験をしたという方に会えば会うほど、共通しているあることに気づきました。今回は、このことについて言及したいと思います。
まず、一番大きな特徴は、みな、瞑想などをしている最中にワンネスを体験している、ということでした。
「ワンネスを体験したんですけど…」
と仰る方は、みな、瞑想などをしている最中にその体験をしているのです。
(瞑想している、なんて人に言えないから、会った事がないのかもしれませんが。もしかしたら、結構いるのかもしれません)
確かに、瞑想はある点において役に立つので否定するつもりはありませんが、私にとっては、これはかなり不自然な印象を受けるのです。
「ワンネス?というか、そういう体験をしたんですけど…」
と、みな、仰います。
で、よくよく聞いてみると、瞑想中にそういう「全てである」ような体験をして、これは一体、なんなんだ?と。
あるいは、そういう疑問なく、その体験の価値がかけがえのないものだと感じる人も多いようです。
確かに、そうなんだと思います。
けれども、私自身も、瞑想中にそのような「全てである」というような体験をしたことがあるのですが、私にとってそれは、あまり大した意味をもちはしませんでした。
瞑想中に起こる一切について、私はどうしてもそれらが素晴らしいとも思えず、心惹くようなものであるとは思えなかったのです。
(機をみて、瞑想については触れなければいけませんが、私自身、瞑想中に起こった一切について、このサイトであまり触れていないのは、そういう理由です。)
ですので、私のそのような体験と、この人が言っている体験は同じなのか?違うのか?というところで識別する必要があったのです。
もし同じであれば、それは私にとってはあまり大した話ではなく、その立ち位置で話さなければいけませんが、違う場合には、その人の話しにもっと耳を傾けなければいけないからです。
ですが、そのような人との出会いを重ねていくうちに、そのような識別をする必要がないことに気づきました。
もし、「私もそういう体験をしたのですが、あなたの体験と同じなのでしょうか?それとも違うのでしょうか?」と質問したところで、本当の答えをもらえるとはどうしても思えなかったのです。
それよりも、もっと重要な事はそのような人と話しているうちに、ある点について見えるようになったからです。
それは、
「繋がっていない」
という感覚でした。
この感覚がある限り、もろてを挙げて、「やあ!!!それは、本当に素晴らしい体験ですね!!ありがとうございます!!!」とは、言えませんでした。
ここで、私は何度、自分自身に注意を傾けたことでしょう。
つまり、なぜその人の体験を賞賛できないのか?
それは、私の中に巣くっているあいつが認めようとしないせいではないか?
まだ嫉妬やライバル心が残っていて、それがそうさせないのではないか?
と何度も何度もチェックしなければなりませんでした。
しかしながら、それはやはりそうではありませんでした。
さて。
では、この繋がっていない、ということが一体、何を意味するのか?それを見てみましょう。
「ワンネスを体験しました」
ということを聞く時、私は、いつもそこに通らない、繋がらない感覚を感じてきました。
これが何を意味しているのか?といえば、それは、バラバラだ、ということです。
「ワンネス、体験しちゃったんだよね」
という時、それは個人的すぎる体験で、個人の域を出ていないのです。
ですので、拡がっていかず、繋がりを回復しないのです。
体験というのは、確かに個人にしか通用しないものです。
よって、体験を語る事で、バラバラ感を感じてしまっても、なんらおかしくはありません。
しかしながら、そうではない体験、というのは、確かにあるのです。
個人を超えている体験、だからこそ、私たちはそこに私たち自身の故郷を感じる事ができるのです。
このいい例がバーナデッド・ロバーツです。
彼女は、人生の全てを観想に捧げている、といってもいいくらいの方ですが、彼女が問題にしたのは、観想中に起こるあれやこれやのことではなく、沈黙の性質とそして、彼女に ”観想が終わったことを気づかせ進ませたあの歩いて出た” 話です。
私自身、彼女の話しの中で最も関心を抱いたことの一つが、これでした。
彼女の話を読んでいて、最初に最も繋がりを感じた事がこれでした。
なぜなら、これこそ本来の状態に近かったからです。
なぜなら、このとき、個人がいない からなのです。
これが、私たち本来の状態であるがゆえに、そこで繋がるのです。
だから、彼女は、このことを記したのですね。
そういう理由が、そこにあったのです。
一方、私が出会ったきた人のなかでは、「ワンネス、体験してさ」と、中には、自慢げにいう人さえいたのです。
つまり、「オレはワンネス体験できたすげー奴だけど、お前はどうだ?」
というあのおきまりの奴がそこにのさばっているのです。
たとえば、この場合、もう全くワンネスではないのです。
逆のバラバラ、分離が加速されているのです。
つまり、このように言ってしまうとき、もう自分自身、ワンネスからかけ離れているどころではなく、真逆の在り方をしてしまっている、ということに気づいていないのです。
だから、自分だと思っている自分に眠っているのであり、だから、やはり個人の領域を出ていない、ということの証明になるのです。
こういうことが見えた時、私がなぜ瞑想中に起こったあれやこれやについて、誰にも何も言いたいとも思わなかったのか、そのことに合点がいきました。
それは、分離を加速させるからです。
あくまで個人の領域の話であり、それは超える事を示唆しないからでした。
これは、本当に皮肉なことです。
ワンネスとは、全てであり、分離という病がない状態のことです。
だのに、ワンネスを体験して、分離を促進させる、という皮肉どころの話ではない状態にさせてしまうわけですから。
また、このワンネス体験をしてきた方々を見ていると、共通して軽くなっていない、ということもひっかかることでした。
何度も繰り返しますが、
軽いとは、英語でlight です。
明るいとは、英語でlight です。
光は、英語でlight です。
これらは、厳密に他の意味もあるとかいう、言語学的な意味はほっておいて、とにかく、ここでの着目点は、軽いと光、明るいは一緒だ、ということです。
彼らは、全く軽く(light)なっていませんでした。
つまり、光(light)を感じさせてはいなかったのです。
しかしながら、ワンネスという体験は、必ず光を伴うはずです。
ですので、それらを体験したのであれば、必ずそれ相応のポジションにいなければいけません。
ですが、それはそうではありませんでした。
逆に、非常に重苦しい状態になっている人がほとんどでした。
そのことに、彼らは全く気づいていませんでした。
ですので、本当は
「ワンネスを体験したのですが、軽くなっていません。それが問題で、それが偽りなのか?もっと知らなければいけない事があるのではないかと思うんです」
という発言が出てくることが、いわば本来の在り方なのです。
このように ”自然と” 言える人は、まったくもって実現する人です。
しかるべき飛躍を遂げる事は、間違いありません。
なぜなら、心を常に開くことが出来るからです。
そして、自惚れや傲慢さに何気なく気づいていて、その罠にかからないほどの沈着冷静さを身に纏っているからに他なりません。
以上のことから、ワンネス体験というのは(私が聞いてきた限り)、少々注意が必要である、ということです。
さて。
以上のことから、私たちはまず、ワンネスを体験した時、瞑想など特別なことをしていたのかどうか?
ということをチェックする必要があります。
もしそうなら、それをあまり重要視する必要がない、という切り分けをしたほうがいい、ということです。
なぜなら、そこでもっと重要な質問が出てくる必要があり、こちらを優先しなければいけないからです。
それは、「それは私が起こしたのだろうか?」という質問です。
その質問にYESと答えるのなら、それは間違っていますが、あっています。
その質問にNoと答えるのなら、それはあっていて、間違っていて、やはり結局はあっています。
しかしながら、この段階で求められる答えは、NOでなければなりません。
もし、ワンネス体験をして、この質問が自然と出てくるようであれば、間違いなくそれは有意義な体験であり、橋をかける体験となりえます。
一方、ただ「体験したんだよね。で、全てだったんだよね」というようであれば、それはまだまだまだまだまだ間違ったエゴのもので、延々と罠にはまっていくことが示唆されています。
その時のワンネス体験は、やはり精霊の訪問の類の一種だ、ということです。
このことは、すでにテキストで言及しました。
精霊の訪問の目的は、あなたがこの世界の現実性に疑問を持つことです。
誰もが信じていて、もしかしたらあなたも当然と思っていることが、実はインチキなのではないか?ということにうっすらと気づかせる事です。
ワンネス体験というのは、そのように精霊の訪問を受け、さらに進むための、もっといえば、その体験が体験ではなく日常になるための指標を与えた出来事、という事が出来ます。
それなのに、その体験で止まってしまっては意味がありません。
その体験をした後は、もうそれは置いておいて、更なる理想に向けて歩き出さなければいけません。
どうもワンネスを体験すると、「オレはもうあがり」のような態度をとっている人がちょいちょいいるのですが、私が見た限り、それはほんの旅の始まりに出ただけのレベルなのです。
その人に待ち構えている仕事は、山のように残っているのです。
こうしてみると、間違ったエゴがいかに罠にはめるのがうまいのか?
それはもう、おぞましいを通り越していますが、私たちはこのように、もっともっと進まなければいけないのです。
ワンネス体験とは、瞑想などをしている最中に起きるワンネス体験であればあるほど、往々にして精霊の訪問の一種であるといえます。
その目的は、私たちにある限界点を超えて進ませるためにあり、そこに向かって進まなければいけない、ということです。
ですので、その体験は、誰かに自慢するためにあるわけでもなく、疑問に思って、その疑問の中で答えを求めて、堂々巡りをするためにあるわけでもありません。
本当にその体験の価値を知りたいと、最も深い所で純粋に決断したのなら、必ず答えはやってきます。そうなっているからです。それは、必ずやってきます。
しかるべきタイミングでやってきます。十年、二十年、もっとかかるかもしれません。けれども、やってきます。
ですので、その体験の価値を求めて悶々としている人がいたら、このことをぜひとも覚えて安心していただきたいと思います。
そしてまた、私たちが理解しなければいけないことは、そのような体験そのものに価値があるわけではなく、それをきっかけにして、何に気づいたのか?そして、どう生き方が変わったのか?何が見えるようになったのか?
ということなのです。
このことを多くの人が見過ごしているようなのですが、ここが最も重要な点です。
こういう生き方、行き方が板についてくると、自然に繋がりを回復し始めることになります。
以上、今回は、ワンネス体験とその位置づけについて詳しく触れてみました。
(おわり)
【レベル】:ホワイトクラス