(前回のテキストは、こちら

「あなたが真我である。あなたが実在である。あなたは生まれることも死ぬこともない至高の存在なのだ」

という一言に、彼は完全に心を開いたわけです。

完全に心を開いたからこそ、彼は後々実現することになったのです。

最初、グルの所に行くまでは、抵抗感満載の状態でした。
つまり、猜疑心にまみれた汚れた心の状態だったのです。

ですが、いざグルに会った瞬間、そのような猜疑心は突如消え去り、心が開く事が起こり、純粋な状態、完全な受容状態になったわけです。

このテキストの中でご紹介している例ももちろん、典型的な例ですが、ニサルガダッタ・マハラジという誰でも知っている人の例を出すことで、ここで再度、それがどれだけ重要かがわかるかと思います。

というわけで、ここで私たちは、ある限界点を迎えることになるわけです。

それは、心を開くこと、純粋になること、素直になることは、自分だと思っている自分にはどうすることも出来ない現象である、ということです。

そうです。それは、事実です。
それは、自分の力に依るものではないのです。

それは、起こることなのです。
そして、それは起こせる類のものではないのです。

そうなると、私たちは次の結論を導かざるを得なくなります。

それは、何をやっても、どうアプローチしても無駄じゃないか。
という結論です。

ですので、既にテキストで書いたように、「心を開こう」とより積極的になることの重要性を指摘したわけです。

それは、招きよせるための術であり、知らせるための術でもあります。

しかしながら、それでも実現しない場合、何が心を開かせないのでしょうか?

それは、経験し見てきた限りで言えば、

それは、その人にとっての本物が、それではないため、です。
それは、その人にとっての目的が、それではないため、です。
それは、その人にとって欲していることが、それではないため、です。

これをニサルガダッタにあてはめれば、ニサルガダッタが求めていたことが、そのグルにはあった、ということです。
ニサルガダッタ・マハラジにとっての本物が、そのグルだったのです。
ニサルガダッタ・マハラジにとっての人生の目的が、そこにはあったのです。
ニサルガダッタ・マハラジが欲していた事が、そこにあったのです。

だから、難なく心を開く事が起こったわけです。

ですから、ニサルガダッタをグルの所に強引に連れていった友人は、ニサルガダッタが実現したことは、実現できなかったのです。
(その友人は、あくまでニサルガダッタにとっての精霊の遣い、という役割がありましたが)

その友人にとっての本物は、そのグルではなかったのです。
その友人が本当に求めていたものは、そのグルは持ってはいませんでした。

ですから、その友人は、ニサルガダッタのような実現は起こらなかったわけです。(これは、あくまでたとえば、の話で、実際にその友人も実現したのであれば、それは彼にとっての本物がまさしくそうだった、と言えるのです)

ですので、あなたがどこに行っても、何を読んでも、何を見ても、誰に会っても、何も実現しない場合、あなたの目的がそこに絡んでいる、ということになります。

ええ。
非情ですが、本当のことなので仕方ありません。

では、次に第二点目を見ていきましょう。

(つづき…)