さて。

ここ何回かにわたって、シェアシリーズとして、クラスやグループミーティングに参加された方々に起こったことをご紹介してきました。

これまでも、私たちにとって役立つ具体的な個々の体験については、ここで何度も共有してきましたが、ここ最近は、その頻度がやけに高くなっています。

飛躍的な理解をされる方が多くなっています。

もちろん、それにはそれ相応の理由があり、間違いなく事前準備が整っているからこその結果なのですが、それでもその実現速度には驚くばかりです。
当たり前のことですが、実現は一瞬で起こるわけですし、私も時間に依存することなく皆さんにお伝えしている次第ですが、それでもその結果を見ると、あの存在の確かさは更に揺るぎないものとなっていくばかりです。(もの、という表現はなんとかしたいです)

また、このような方々が最近現れ始めたのは、これまた当たり前ですが、それまでにギブアップの会に参加され、道を切り拓いてきて下さった方々のおかげでもありますので、改めてお礼を申し上げなければなりません。
ありがとうございますです。

では、再度、なぜここで取り上げる方々はこのような体験をしたり、気づきが起こったのか?ということをわかる限り解き明かしていこうと思います。

私が観察していてわかった限り、少なくとも以下の四点は必須項目と言えます。
ですので、その四点とは一体、何なのか?について見ていきたいと思います。

☆その一 心を開いている

まず一点目は、心を開いている状態である、ということです。
心を開いていることは、素直である、という風にも言い変えられます。

どちらにせよ、求められていることはこういうことです。

クラスなどに参加していて実現速度がやけに早い方は、皆、こういう共通点を持っています。

大仰に言えば、教えに対して心を開いていること、無になっている人は、それをそのまま受け取れるため、実現してしまうわけです。

なぜって、そこに障害がないから。

では、ここでの障害とは、一体なんでしょうか?

それは、ほんの少しでも疑ってしまう心のことです。

反発心や反論したくなる気持ち、どこかに欠点を見い出したくなる衝動、何でもかんでもまずは疑ってみたくなること、保証を求めたくなること、取り引きしたくなる気持ち、何故か小ばかにしたくなる衝動、「いやー、うーん」という言葉が先に出てきてしまうこと、こういうものが心にあれば、それは心を開いている状態ではありません。

しかしながら、これは人間としてみれば、ごくごく普通の反応です。
これは、私自身、そういうプログラムを強く持っていたため、誰よりも共感できることです。

私たちは、常に自分だと思っている自分に騙されているので、こういう猜疑心がなければ、安心して生きていけないように訓練されているのです。

けれども、この日本語は完全に破綻していて意味を為していません。

なぜなら、猜疑心があること自体、安心とは真逆の状態だからです。

”でも”、猜疑心がなければ、また裏切られ、傷つくに決まっている、と私たちはそう思っているわけです。

ですが、その猜疑心がある限り、永遠に安心感や安全を手に入れる事が出来ない、ということもまた事実なのです。

(つづく…)

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