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☆その二 ギブアップ寸前

第二点目は、その人はもう、ギブアップの手前の状況である、ということです。

実現速度が早い人、飛躍的な進歩を遂げる人は、それまでの間、何をやっても、何を見ても、何を聞いても、何を試してもダメだった…。

ということが共通しています。

世界から提供されているどんな手段を講じてもうまくいかない。

もうだめだ…

という時、人はもう手に力が入らなくなっています。
疑心暗鬼、つまり相変わらず猜疑心はありますが、その猜疑心すら機能しないほど、弱りきっているのです。

抵抗する力がもう残っていないのです。

余力はありません。

こういう時、弱くなっている心は受け入れざるを得ない状況になります。

その時こそ、光を見い出すのですね。

こういう時、心を開かざるを得ないのです。

「もう無理」
「もうわかんない」
「もうどうでもいい」

こういう心境の時、自分だと思っている自分の縄張り、監視の力が非常に弱くなり、心が自動的に回帰するようになるのです。

その時こそ、光を発見できる、というわけです。

だからこそ、ギブアップなのですね。
それは、自分だと思っている自分には何の力もない、ということを認めることなのです。

そして、間違ったエゴは容易にそれが認められません。
というか、全く認められません。
認められないからこそ、この世界はこのような進行モードをしているのです。

さて、ここで一点目と共通していることは、何でしょうか?
それは、自分を持ち出さない、ということです。

「自分で理解しようとしない」とき、「俺だったら…。」がない時、心が開くのです。
なぜなら、「俺だったら」、あるいは「自分で理解しようとする」ときは、心を開いていないからなのです。なぜなら、心を開くときは、自分がないときだからです。

自分だと思っている自分で理解しようとするときは、自分しかありません。
よって、神の叡智が入り込む隙間もありません。
自分だと思っている自分でいるときは、一瞬でさえ、神に明け渡そうとなど思わないのです。

しかしながら、疲れきっていて立つことさえできないとき。
もう自分の力は、使えないのです。
そこには絶望しかありません。
もうギブアップするしか手がありません。

よって、自分の力が信じられなくなっているので、自分がないのです。
だからこそ、そこに一瞬の明け渡しが生じ、心が開かれ、理解が起こるのです。

これまでなかなか実現しない人を多数見てきましたが、全員に共通していることは、まだまだ余力がある、ということでした。
全員、自分で、自分の頭で理解しようとしていました。

間違ったエゴ的に、すごく元気なのです。
こういう状況の時は、自分の理解力を完全に信頼しているので、飛び超えた理解に繋がることはありません。ですから、まったく輝かしい状態になれないのです。

ですので、一点目と二点目は当たり前ですが、リンクしています。

では、三点目は何でしょうか?

(つづく…)