さて、今回は、タイトルの通り、マスターとそうではない者たちとでは、決定的に何が違うのか?
その分水嶺の一つをみていこうと思います。

これは、もちろん非常に非常に重要です。
まさしく、これをマスターしさえすればいいのです。

しかし、誰も到達できません。
出来ないからこそ、この夢を、この幻想という世界を見て体験し続けているのです。

では、それは一体何でしょうか?

それは、マスターはもうこの世界に心を奪われることがない。ということです。
物に心を奪われることもなければ、人に心を奪われることも、風景に心を奪われることもないのです。決して。

彼らは、この幻想の世界を体験し尽くし、完全に見抜いたことで、決して心を奪われないのです。

ここで絶対に間違えてはいけないのは、心を奪われなくなったのであって、否定しているわけではない、ということです。

否定というのは、あいかわらず、二元性の中の在り方です。
よって、否定しているなら、その本質を見破っておらず、当然非常に強い幻想の力が、当人にプレッシャーを与え続けていることを意味しています。

一方、その他すべての人は、いまだ、この世界のあらゆるものに心を奪われ続けているのです。

ほとんどすべての人は、心を奪われ続け、自分が何者なのかすら忘れてしまったため、この世界が幻想であること、夢の一つであることすら、気づけなくなってしまったのです。

また、この世界が幻想であることに、ほんのりと疑いはじめた人は、なんとかこの世界から出ようとしますが、いまだ重荷を、つまり心を奪われている領域がありすぎるため、もがき苦しむ結果を招いてしまいます。

ですので、私たちが本当に取り組まなければいけないのは、私は一体、何に心を奪われているのか?ということなのです。

奪われ続けている限り、この夢を観つづけることは起こりつづけます。

グループミーティングでも、このことはくどいほどお話ししています。

言い方は違っていても、私が皆さんに伝えていることは、いかにその準備が出来ているのか?出来ていないのなら、いかにその準備をするか?についてなのです。

決して心を奪われないこと。

分かる人には、この簡単なメッセージは、驚くほど突き刺さるはずです。
「あぁ」となるはずです。

もしそうなら、それこそが、あなたがここでしている仕事だからです。
だからこそ、あなたに響くのです。

そして、その後、間違ったエゴがやってきて、

「それは、本当か?」と言うのです。

そして、それに耳を傾け、同意することで、またもや騙されるのです。

物に囲まれて生きていくことは、確かに素晴らしい経験ですが、そこが本当の故郷ではありません。

私たちがやってしまうのは、物の中に安心や安全を求めてしまうのです。

たとえば、お金の中にそれを見出そうとはしていないでしょうか?
食事の中にそれを見出そうとはしていないでしょうか?
車の中にそれを見出そうとしてはいないでしょうか?
健康な体の中にそれを見出そうとはしていないでしょうか?
家の中にそれを見出そうとしてはいないでしょうか?
そして、何より体の中にそれを見出そうとはしていないでしょうか?

どんなに大きくて過ごしやすいおしゃれな家を買ってそこに住んでも、問題のほとんどは解消されません。
たとえば、風邪になったとしても、家自体が治してくれるわけでも、その苦しさを拭い取ってくれるわけでもありません。

あるいは、そのような家の中でくつろいでいたとしても、すぐにやっかいな問題はふりかかってきて、それに悩みを募らせるのではないでしょうか?

以前、高級住宅街に家を買って住んでいた会社の同僚が、「家に帰りたくない。帰りたくないから、途中の駅で降りて、カフェで時間をつぶしてる」と愚痴をもらしていました。彼はその後、案の定、離婚してしまい、その家を売ってしまいました。

幸せや平和とは、全体的なものであって、部分をかき集めて成し遂げられるようなものではありません。

どんな服を着ようと、どんな家に住んでいようと、どんな理想的な人間関係を持っていようと、それ自体の中には安心や幸せはないのです。

ですが、すでに間違ったエゴはすっかり不安になりきってしまっているので、そこに幸せや安心を求めてすがってしまうのです。

こう言われれば、実にバカバカしいことのように感じられるかもしれませんが、自分だと思っている自分になりきっていると、”非常にささいなことがら”から、この暴走が始まってしまうのです。

私たちは、自分自身で物の本質を見破らなければいけません。
それが出来て初めて、心を奪われなくなっていくわけです。

レベル】:ユニティクラス