クリアクラスでは、そのプロセスのほとんどが浄化にあてられていきます。

ですので、わかりやすい段階といったものはあまりありませんが、大まかに二つの段階があるかと思います。

・浄化

このクラスでは、徹底して自らの重荷、汚れといったものと向き合うことになります。それまでの人生では、汚れを汚れと認識出来ませんでした。汚れに成りきっていたためです。しかし、ひとたびあなたが何者かを思い出したなら、それは汚れがないものとの接触であったため、自分がどれだけ汚れを作り出してきたのかを痛いほど認識せざるを得なくなるのです。

そして、あの接触を確立させるには、自らの汚れや重荷といったものが邪魔でしかないことに気づくため、なんとしてでもこの仕事をやり切る決意をもって進んでいくことになります。

・発見

浄化のプロセスを進めていけばいくほど、自分自身が空っぽになっていくことを実感していき、最後には、あなたは、あなたであるものを発見することになります。

では、最初の目覚め、つまり自分自身が何者かを思い出すことと、この発見とでは、一体何が違うのでしょうか?

最初の目覚め、つまり自分自身が何者なのかを思い出すことは、爆発的な喜びという感情が伴われます。圧倒的な歓喜とでも言えばいいのでしょうか。

「あ゛ーー、思い出したぞ!そうか、そうだったんだ。」

ついに魂が見出され、神が思い出されると、このような体験した事もないような爆発するような、そして途方もない安心感を感じ、殻を抜け出し自由を感じるような感覚を伴います。

対して、ここでの発見は、そのような圧倒的な歓喜を伴いません。
少なくとも、私の体験ではそうでした。

歓喜よりも、叡智に包まれた静止状態、完全一致状態とでもいえばいいのでしょうか。

そのような体験をともないます。
これは、瞑想などで体験する沈黙時の静止状態とは随分違うものです。
瞑想時の沈黙や静止は、自分を中心にした沈黙ですが、この体験は、いわば自分なしの静止になるからです。(これは言葉で完全に説明できません。なぜなら、自分がない時になぜそれがわかるのか?という疑問が生じるからです。その答えは、この下に書いてあります)

ですので、ここでの自分とは自分だと思っている自分のことになります。
見ているようで実は見られている自分が、イメージが完全に静止すると、あの存在が出現します。それまでは自分とは常に自分だと思っている自分のことで、それが主権を握っているのですから、この体験は、”自分”で招くことはできません。コントロールはできません。

それでも、その自分だと思っている自分が偽りの存在だと気づき、クリアクラスでのプロセスを通過し続けると、どうもこのような地点に到着するようです。
あくまで、私の経験からですが。

また、この体験のあとに続く日常生活の変化も違ってきます。
最初の目覚めでは、常に歓喜の状態ですが、たぶんこれはついに思い出されたが故の歓喜のような気がします。ずっと思い出されなかったものが、ついにやっと思い出した、という、いわば最初の出逢いのような、そんな感じがします。

対して、この発見のあと、日常生活はやけに静かになります。
それまであった中心が一時的であるにせよ、なくなり、王座に座るべき者が座る事が、この静けさをもたらすように私の経験では、思われます。
そして、求めてもいないのに、知っているという理解が直接やって来ることが頻繁に起きるようになり、いわば見通せるような経験を幾度となくします。

とはいえ、これは第三の目を通して見る、とかそういうものではなく、それよりもノウイングネスと言われるものに近いのではないかと思います。

さて。
この発見によって、あなたは旅をしているようで旅をしていなかった。
あるいは、探し続けていたものは、すでに自分自身の手にもっていた、といったなんとも皮肉な結論に到ります。
それまで、このようなメッセージを何度も読んできてはいましたが、それはまさにこういうことだったんだ、とやっとわかるのです。

この段階を超えると、最終的にユニティクラスと呼ぶこの世界における、おそらく最後のプロセスの場へと進んで行くことになります。(今の私が分かる限りですが)