オッス! オラ、悟空!!

… という冗談はさておき。

今回は、お便りを紹介したいと思います。
私たちにとっては、非常に良い、生きた教材といえます。


先日もうグニャグニャ、神経症になりそうだワイ、
一度外に出ようと思う前に、

足先が、すでに玄関に向いている事に、
何故か気が付きました。

あまりに一瞬で、
アレッっていう感じだったけど、

思い起したら、
何もしてない事、
出来ない事、本当だなと思いました。

「体が先に動いちゃって」
単にこういう事なんだろうけど、
私にとっては、ダメ押し確認でもありました。

いろんな事起きるけど、
次々勝手に起きてくる、
今なんか、PCでメール書 いてるし、
何にもしてないのに、
次々展開している。
これって、確かに神業、神秘としかあり得ん。

この体験は、私たちにたくさんのことを教えてくれています。
それが、何なのか?
見ていきましょう。

☆行為者はいない

私のところにはよく、

「行為者がいないって、どういうことですか?」

と質問をしに来る方がいます。

みなさん、それが何なのか?
行為者、個人がいない、ということはどういうことなのか?
まさに自分が行為をしているのは確実であるがゆえに、なぜそのように言われるのか?それを知りたいようです。

その答が、この体験なのです。

この体験を読めば、いかに行為者がいないか?
行為をしているようで、していないのか?

ということがわかります。


>先日もうグニャグニャ、神経症になりそうだワイ、
>一度外に出ようと思う前に、

>足先が、すでに玄関に向いている事に、
>何故か気が付きました。


そうしようと思う前に、すでにしている。

これです。

間違ったエゴは、 ”こうしようと思い、決断し、行動する”  というように、 ”選択した後、行為に移る” と ”思っている”のです。

この公式によって、自分が何かをしている、という実感を得られるのです。
自分は生きて動いている、と思えるのです。
主権は自分のものだという正当性が確保されます。

しかし、この方が体験した事は、

”選択の前に、行為に移っていた”
”考える前に、行為をしていた”

ということが起こったことに、突如気づいたのです。

これが起こってしまえば、間違ったエゴを支えている基盤が崩れ去ってしまいます。

☆間違ったエゴの絶対ルール

なぜなら、間違ったエゴ、行為をしていると錯覚している個人の絶対ルールは、

”選択した後、行為する” 
”こうしようと思い、だから、こうする”

だからです。これが絶対ルールです。

思い出して下さい。先日のテキストを

・ルーティンなんてクソ喰らえ

本田選手の発言を。

「ルーティンなんてクソ喰らえ。って自分に言い聞かせながら考えて行動してる。

そうです。
考えて、行動している。

なのです。

ここに、いかに私たちが自分だけで行為をしているか?
そこにいかに完全に盲目になっているかが垣間見えるのであります。

彼はまだ、何も気づいていません。
全部、自分でマネージメントできると思っているからです。
起きていると思っていますが、眠っています。

しかしながら、彼はいつか気づきます。
なぜなら、いつまでもそこに居ていいわけではないからです。

いつかは、本当の事に気づかなければなりません。
それは、絶対です。でしょうだとか、かもしれない、ということはありえません。

こういうわけで、私たちには本当の自由意志はない、と言われているのです。

さて。
この体験を通りぬけることで、この方は、気づくべき事に気づかなければなりませんでした。

その結果、案の定、

>思い起したら、
>何もしてない事、
>出来ない事、本当だなと思いました。

という結果を導き出すことになったのです。

これが、成果、なのです。
これが、神がいかに働くのか?という成果です。

いいでしょうか。
再度、見てみてください。

>一度外に出ようと思う前に、
>足先が、すでに玄関に向いている事に、
>何故か気が付きました。

間違ったエゴは、こうしようと思い、行為するのです。
それが、思う前に、決断する前に、行為していた、ということであれば、間違ったエゴは、何に依って生きればいいのでしょうか?
選択して行動していたのに、選択の前に行動していたのなら、”一体、誰が” 選択していたというのでしょう?間違ったエゴは、これを認められません。

絶対は、絶対なのです。
こうしようと思う前に、勝手に行為していた、なんてことは、間違ったエゴの立場から言えば、あってはならないことなのです。

それは、間違ったエゴの存在を否定するからです。

しようと思ったけど、勝手にしていた、なんてことがあったら、もう完全にコントロールが効いてないのです。

それは、何でしょうか?
それは、不安定を意味します。

そう、不安 です。

こういうことが起こり、それを認めてしまえば、間違ったエゴの支配権は崩れ去ってしまいます。

行為しているのなら、常に、絶対に、行為できてなければいけません。

これが崩れ去ったのなら、行為できてない間違ったエゴとは、一体何なのでしょうか?
私とは、一体、何なのでしょうか?

という疑問が発生し、これが起これば、もう間違ったエゴの寿命は決まったも同然だからです。あと少しの余命宣告をされたも同然なのです。

☆間違ったエゴが持ち出す最終手段

だから。
ですから、間違ったエゴは、最終手段に出るのです。

病気、だと。

そんなことがあってはならないから、そんなことが起こるのは、「お前は、病気になっている」と。

病気を持ち出すことで、恐怖を植えつけることで、自分だと思っている自分の意味のなさ、力のなさ、ほんとは実在していない、という事実を、これで隠蔽できるのです。
これで神から隠れられると、このおきまりの奴は、本当にそう思っているのです。

けれども、この策略も、もう有効ではありません。
このように、全てをばらされてしまっているからです。

しかしながら、この間違ったエゴは、とてつもない策略家ですので、また新たな対抗策を打ち出してくるでしょう。

ただ、もう私たちはこれらには影響されません。
知っているから。

これだけで、充分なのです。

☆気づきは、一瞬

>何故か気が付きました。

>あまりに一瞬で、
>アレッっていう感じ

ここでのポイントは、”何故か気づく” というところです。

私たちが考えるとき、何故かを考えるわけです。
けれども、気づきは超えているので、考えを入らせません。

自分が考えている時、そこにはコントロールしている私があります。
けれども、何故か気づくとき、そこには考えもなく、コントロールもありません。何故か、がない時、考えから自由になっています。
よって、気づきとつながります。

ここが神が入ってこれる時、精霊が入ってこれる時です。

☆体験を通して、直接知ること

この方が体験したことは、何も特別な事ではないのです。
誰もが、このような体験をしたことがあるのではないでしょうか?(ないかもしれませんが)
ですので、ここでの問題は、そこに気づけるかどうか?
ということなのです。
そして、厄介な事は、気づきは間違ったエゴのものではないため、それをコントロールできない、という点なのです。気づきは、超えているからです。

何もしていないこと、自分ひとりでは何も出来ないことについて、テキストを通し、また、GMやクラスを通して、何度もお伝えしています。

しかしながら、重要な事は、この方のように自らの体験を通して、直接知る、ということです。

それまでは概念なのです。概念だけでは、何の意味もありません。
もちろん、概念だけを扱い、生き延びる事だけを優先した人生を歩みたいのなら、それはそれで全然問題ありません。けれども、私たちが求めている状態は、違うはずです。

その叡智と自らが繋がること、それが肝なのです。

☆殻にヒビが入る

とはいえ、この方に間して言えば、まだ疑っています。

文章からそれが感じ取れます。あの特有の臭いがします。

まだ、突き抜けた理解にいたってはいません。
というのは、

>思い起したら、
>何もしてない事、
>出来ない事、本当だなと思いました。
というように、気づきから自分の考えに移行させたからです。

ここでは、”本当だなと思いました” ではなく、”びっくりしました” あるいは、”はっきりとわかりました” となるのです。本来。
(また、そう言われたからと言って、これを公式にしてしまうこともまた、間違ったエゴがすることです。)

ここでは、明瞭に、気づきから考えにシフトして、自分の枠にはめこんでしまっているのが見て取れます。

しかしながら、それでも充分です。

この体験を通して、自分自身が概念としてしか理解していなかった”こと”を、直接知ってそれが本当だとわかったのなら、堅牢な殻にヒビが入ったのです。

このヒビが拡大し、いつしかその殻が破れ、本来ある状態を見るようになるのです。

その為に、この方に非常に重大なイベントが起こったわけです。

☆消え去っていくうぬぼれ

この方は、続いて、このようにも仰っていました。

>私は神という感覚はまだ腑に落ちませんが、
>神秘の中にいる、大きな整合性の中にいると
>やっと思えました。

”大きな整合性”

いい言葉です。
積極的に使わせていただきます。w

さて
この方は、気づいたら足先が勝手に玄関に向いていた、という体験、気づきから、神に愛されている、大きな整合性の中でちゃんと機能している、ということを受け入れる事となったのです。

この体験がなければ、このような受け入れは出来なかったはずです。
ですので、やはり体験を通して直接知る、ということがどれほどの力を秘めているのかが、ここでもわかるのです。

>やっと思えました。

やっと、です。
本来、はっきりと見えました。わかりました。であれば、なおさらいいのですが、これだけでも充分です。
本当に。

このことが”受け入れられる”ために、一体どれほどの歳月が必要だったのでしょうか?

何十年…かもしれません。
何百年…かもしれません。

何度も繰り返しますが、このことが本当にわからずに大半の人が人生を終えていくのです。
そうであれば、この方は、なんという恩恵にあずかったのでしょうか。
それは、賞賛に値する人生です。

何もこれは、お世辞で言っているのではなく、本当にそうなのです。
どのマスターも、人がこのような理解に到った話を聞けば、打たれるのです。
それ以外の話、つまり過去、どんな学校に行き、どんな人と付き合い、どんな会社のどんな役職についていただとか、そんなことにはまるで興味を持ちません。
彼らが関心を抱くのは、何に気づき、どういう状態になっているのか?
それだけです。
そこからわかることは、あなたが日常、他人に対して何に関心を持っているかが、あなたが今いるレベルだという事が言えます。

そして、こういうことがひとたび受け入れられれば、あとは自然と理解出来るようになり始めます。

ただし、これで終わりではありません。

もっともっと叡智につながっていくことが可能なのです。
この理解、このレベルは偉大ですが、しかしまだ入門なのです。
平均的な人間のレベルを完全に超えており、かつてはここが最終的な領域だったかもしれませんが、でもまだ入門なのです。

ここからです。
ここからが本番なのです。

それを共有するために、私はここにやってきました。

☆それは偶然ではない

最後の重要ポイントは、

>先日もうグニャグニャ、神経症になりそうだワイ、
>一度外に出ようと思う前に、

という点です。

肉体的、精神的に追い詰められていたという点です。
この体験をもたらすには、肉体的にも精神的にも疲れ果てていなければいけなかった、ということです。

このような体験をもたらすには、通常の思考回路が機能しなくなっていなくてはなりませんでした。なぜなら、この方は、考えて解決する事をまだまだまだまだまだまだ(しつこいか)、絶対視しているからです。そして、これはほとんど全ての人にあてはまります。あなたも、疑いなくそうです。

ですので、スピリットは、精霊は、この方がもう考える事が出来ないような状況をつくらなければいけませんでした。いわば、間違ったエゴを罠にはめたわけです。これが、ドン・ファンが言っている忍び寄る事に忍び寄る典型的な例です。

”たまたま”、もうグニャグニャ、神経症になりそうだワイ という状況になったのではない、のです。

このような体験を通し、気づくべき事に気づかせるために、このような状況がもたらされた、ということです。

これをこじつけだと思う方もいらっしゃると思います。
それはそれで構わないのですが、起こった事はそういうことです。

このような絵は、目覚める事で見えるようになってきます。

事実、この方もこういう風に言われても、まだ腑に落ちないかもしれません。

目覚めに繋がり始めると、こういう風に言われると

「ハッ」とするのです。

つまり、こういう風にすべて整っているということがわかることで、再度、ああ、やっぱり大きな整合性は、神はこういう風に働いているんだ!と気づき、そのとてつもない力、愛に心を打たれ、砕かれてゆくのです。

こういう風にして、一つ一つ積み重ねていくことが起こります。
この積み重ねがなければ、待ち構えている(適切な言葉ではありませんが)数え切れない関門に立ち向かえないからです。

以上、今回のお便りもまた、非常に示唆に富んだ例が含まれていました。
それを、ここで共有できたのは嬉しい限りです。

ありがとうございました。