・ある女性の体験談から

ダグラス・ハーディングシリーズの初回では、直接理解ということに触れましたが、この直接理解というのは、精霊の訪問の一種であり、気づきのことでもあります。

私は、とりわけ、この直接理解というものを非常に重要視しています。
なぜなら、この直接理解は、あらゆる点において、あなたを助ける働きをするからです。

さて、早速ですが、ここである一人の女性が体験したことについて、触れてみたいと思います。

彼女は、定例ワークショップに参加されたことのある方で、先日、ご自身が体験されたことをお話ししてくださいました。

彼女は、一連の話の中で、何気なく、自分自身に起こった偉大な体験を、ごくごく謙虚に、そして誠実に語ってくれました。

そしてその体験、つまり直接理解に触れたのは、ワンちゃんとお散歩していて、突然として起こったそうです。

彼女が勤めている会社にワンちゃんがいて、いつも通りその子の散歩に出かけ、
ある原っぱに出たとき、彼女は、突如、「在ること」に触れた、というのです。

・抵抗が消え去る

それまでの人生で、彼女は、音楽と絵を愛していたそうです。
彼女のよすがとなっていたのが、まさしく音楽と絵であり、よい音楽を聴くことや、良い絵を見ることは、彼女が非常に大切にしていたことだったそうです。

けれども、「在ること」に触れてしまった後、彼女は、それらが自分が考える以上に重要なものだと思えなくなってしまった、というのです。

それらを「ガラクタ」というかなり粗雑な表現で、私が言ってしまったのか、彼女が言ったのか忘れてしまいましたが、彼女は、微笑みながらそれを、すんなりと受け入れてしまいました。

私は、彼女がそれまでどれだけ、絵や音楽を大事にしてきていたかをすぐに察しました。
私には、それがすぐにわかりました。

けれども、「ガラクタ」という表現に彼女は見た目、何も抵抗しなかったのです!!

これこそが、直接理解の現れ方であり、その働きです。

直接理解が残酷だと思える点は、それまでどれだけ自分が大切にしてきたものであろうと、情け容赦なく、粉々にしてしまう、吹き飛ばしてしまう、というところにあります。

しかしながら、一度でもそれに触れれば、壊されたものや吹き飛ばされたものには執着がなくなってしまうのです。それほど、”それ”がもたらすものは、圧倒的なまでの力があるのです。それよりもっと、比較にならないほどの何かを手にするのです。

私は、彼女の話を聞いていて、本当に打たれました。

彼女がどれだけ絵や音楽を大切にしていたかが十分わかり、そして、それがそんなにすごいものじゃなかった、と気づけるということの偉大さに、私は打たれました。そして、本当に嬉しかったのです。

彼女は概念としてではなく、事実自分が理解したことを、自分の言葉で話してくれたのです。

・現れ方とその働き

彼女は、「在ること」に触れたことによって、何に気づいたのかをこんな風に語っています。

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何かを感じようとする行為、
美を探そうとする行為が何か歪なものに感じられたんです。

それは、そこに私の価値観を探してたにすぎない。
この原っぱは、ただ在るだけなのに。
美はそのようにして見出される訳もない。
無関係であろう。

こんな、自然の 中にいても
何かを(私)を感じようとする
行為者である私が、
少し情けなかったという感じでした。
片時も行為者だったと気付いた一瞬でした。

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これこそが、私がこれからも何度となく触れる、みなさんに訪れる直接理解の現れ方であり、その働きです。

間違ったエゴは、人間は、何かを知覚するたびに、それを自分のものだと習慣から勝手に決め付けるようになり、あらゆるものにラベルを貼っていってしまいます。
ですので、本当の美に、実は触れていないのです。いつもいつも、偽物を本物だと信じ込んで生きているのです。

私が言えるのは、彼女に起こったことは、本当の美に触れたことであり、目から曇りがとれた瞬間でもあるのです。

このように、直接理解は、突如現れて、あなたが大事にしていたものを吹き飛ばすでしょう。
けれども、ひとたびそれを経験したのなら、それは最悪な出来事ではなく、
まさしく祝福すべき出来事だと、誰に教えられなくてもわかるのです。

直接理解を通して、あなたは誰にも聞かず、真実を理解するのです。
これこそが、みなさんに通り抜けていただきたいものなのです。

彼女は見事にそれに出逢い、得るものを得ました。

このような直接理解がたびたびやってくることで、みなさんは揺るがない
理解の中に入っていくのです。

(おわり)