さて。

今回は、先日、グループミーティングなどによくご参加いただいている方からいただいたお便り(抜粋)をご紹介したいと思います。

いただいたお便りは、こんな内容でした。


最近ようやく、やっと、
私の病巣は
この貧困な自尊心だと
深く思うようになりました。
もう、悟りやなんちゃらより、
この自尊心がなくなって欲しいです。
…(中略)
私はまず、この貧困かつ頑固な自尊心が死なん事には、
グルグルゲームの中で、干乾びるだけです。
病的な自尊心をつくってまで、
在ろうとする程の処ではないと、
かぐや姫じゃないですが、
最近は思うようになりました。

この文章を読んで、皆さんはどうお感じになられましたでしょうか?

私がわかる限り言えることは、この方はいわゆる大いなる仕事を果たした、ということです。このレベルまで来られる人は、かなり珍しいです。
探求者だろうが、ライトワーカーだろうがなんだろうが、このレベルに到達することは、簡単ではありません。

実は…
初めてかもしれません。
こういう方にお会いするのは。

一見、単なる文章に感じられるかもしれませんが、その文章からにじみ出てくるレベルを感じ取れます。

ここまで来るのにどれだけのプロセスを経なければいけなかったのか?
それはもう、想像を絶します。
けれども、淡々とですが、この方はご自身の在り様を綴っておられます。

ただ、一つだけ訂正しなければいけないのは、貧困かつ頑固な自尊心、病的な自尊心といった区分けは、自尊心にはありません。
つまり、反対の健全な自尊心といったものはありません。

自尊心とは、常に貧困で頑固で病的なのです。
よって、自尊心そのものが問題なのです。
(この方はわかっていますが)

しかし、けれども、この方はとうとうそのことを事実、感じ取れるようにまでなってしまったのです!

〖悟りや解脱なんて、どうだっていい。
それよりもこの自尊心がなくなってほしい。〗

このように、心の一番奥深くから言えるようになることは、途方もないプロセスを通過してきたからこそ、そう言えるのです。

もちろん、これでおしまいではありません。
しかし、このレベルに到達することを、この方のように言えることを、私は強く強く勧めます。

しかし、このように言えることが重要だからといって、これを頭の公式にしては絶対にいけません。

この文章を覚えて、セリフのように言うことに何の価値もありません。

ポイントは、自然とこのような感覚になることです。
その時、強制されるのではなく、誰かからそう思えと強制されたからではなく、自然とそのような心境になるのです。

その時、もしかしたら、「あぁ、確かあの人が言っていたことはこういうことなのか」と思い出すかもしれません。
それほど自然な状態なのです。

これこそ、到達した証です。

このようなレベルに到達するには、一体どれくらいの生涯が必要なのでしょうか?
ほとんどすべての人は、こういう状態とは無縁のまま死んでいくのです。

そうしてみたとき、この方の成長スピードの速さは尋常ではないのです。

なぜそう言えるのでしょうか?
私は知っているからです。

もしそれで納得できないのなら、ニサルガダッタの言葉を思い出してください。

「誰もがあれやこれやの瞑想や修行を行っている。けれども、個人を消去することの重要性には誰も気づかず、誰も実行しようとはしないのだ」

相変わらず正確な文章ではありませんが、要点はこういうことなのです。

つまり、ニサルガダッタが本当に重要視していたのはこういうことなのです。彼でさえ、このような人に会うのは稀だったのでしょう。

よって、この方は、知らず知らずのうちに、彼が必須条件としているレベルに到達していた、というわけです。

おわかりになりましたでしょうか。

※このテキストには、補足があります。補足につきましては、下記リンクから

【補足】大いなる仕事、大いなる成果 ~ある方の具体例から~