(前回のテキスト)
宮崎駿さんとドワンゴの一件から見えてくること -1

つまり、これがずっと続いているのです。
私は宗教的なバックボーンはないのですが、よく聖書は本来の意味するところから外れて、まったく歪曲されて伝わっている、というような話を聞きます。
実際、私もこのような例を数え切れないくらい目にしてきました。

本当に恐ろしいことです。
風の谷のナウシカを見ているにもかかわらず、あんなものを作ってしまう間違ったエゴの所業に。彼らは自分たちのレベルがどういうレベルなのか?それを明確に表現しているのです。

今回、このプレゼンに参加したのは、ドワンゴのプロジェクトチームのみならず、会長というトップが先頭に立っています。

ここで見逃してはならないことは、レベルとは社会的地位とは全く関係がない、ということです。

ドワンゴという会社は有名な企業です。そのトップとなれば、社会的地位という観点から見れば、とてつもないハイソな人です。しかもたぶんこの方が自分で創業したのでしょうから、とてつもなく優秀なビジネスマン、ということになります。

一見、すごくきらびやかです。
しかしながら、この程度のレベルで生きているのです。
宮崎さんの作った映画をみても、あのようなものがベストで素晴らしいという意識レベルなのです。

何度も繰り返してきたように、私にはこれが全然受け容れられませんでした。
こういう例が一つでもあるのなら、社会が最も重要視しているものは、何の意味もない、ということになってしまいますから。

私としたら、そんなバカな話はないだろう、では一体何のために小さい頃から勉強しているのか?それは、崇高な目的があってそのような人間になるためにやっているのだろうと思っていたのですが、結果がこうであれば、全くのインチキをやらされている、ということになってしまいます。

私がひとたびこれを受け容れれば、社会にずっと騙されていた、ということになり、そんなはずはない、という想いのほうが強かったのです。
(実際は、この逆ですが)

ですので、本当にたくさんの人とあって直接確かめなければなりませんでした。
これに人生のほとんどを費やしてきたといっても過言ではありません。

しかし、私自身がわかったことは、本当にこの通りの事だったのです。

意識レベルと社会的地位や仕事できる/できない、頭がいい/悪いというのは、比例しないのです。
社会は、意識というものを扱えないのです。
いえ、扱えないのではなく、あえて扱わない、といったほうがいいでしょう。
それは、私たちが永遠に回し車のなかで回り続けるために、あえてそうしているのです。

もしあなたがこのことに腹が立って受け容れられないのであれば、かぐや姫の物語を見て、そしてここのテキストを読んでみればわかるようになります。
最初はわからないかもしれませんが、いずれわかるようになります。

「この人たちは、こんなものが宮崎さんに受け容れられ、彼が手放しで褒めるなんてことはありえない、ということに気づいていないんだな。自分達が何を作っているのか、さっぱりわかっていないんだな」

と、この場面を見ながらそう思える人は、あまり多くはないかもしれません。

大抵の人は、あぁ、怒らせちゃったよ。ばかだなー。ぐらいの感想しか持たないでしょう。

気づけない人は、気づけない。
今回の件は、このことを如実に示しているのです。

(つづく…)

【レベル】:ホワイトクラス~ゴールドクラス