サークルの彼方へ

ゴールドクラス 3 私もまた、神である

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・分離を終わらす

今回は、「私もまた、神である」ということについてになります。

この理解は、帰還のプロセスを歩む多くの人にとって、重要な理解だと思います。
なぜなら、この理解は分離が単なる幻想で、全体こそが事実だということに基づいているからです。

私もまた、神である。ということであって、私だけが神である、と言っていません。
私だけが、ということは、またしても離れ離れで、そこには分離が存在しているのです。

分離が幻想ではなく、分離こそ事実で現実だという理解に基づいて生きていくと、もうそこに救いはありません。
不安と恐れしか生み出せなくなります。

私が見る限り、世界は完全に不安と恐れによって成り立っています。
人生とは不安と恐れのことのようです。
この信念があまりに強固なため、誰も疑うことすらできません。
不安が当たり前、恐れて生きることが当たり前になっています。

ひとたび、「それは、本当だろうか?」などという疑いを持って、不安と恐れに支配されている人に語りかけると、”狂ってしまった人間”とみなされるのではないでしょうか?

「普通ではない。不安と恐れに動機づけられて生きていくのが当たり前なのに、お前は頭がおかしいんじゃないのか?」

このような言い方はしないでしょうが、彼らが言わんとしていることは、このようなものです。

・不安と恐れが世界を支えている

この世界は、不安と恐れによって成り立っている。
だから、この不安と闘わなければいけない。
みんな不安で恐れている。みんな不安だから、自分を守ろうとする。
だから、自分が生き延びて、より不安を感じなくするためには、他人を利用しなければいけないのなら、そうする。

他人や他の生命体に勝つためには、何だってする。
殺す必要があるのなら、そうする。だって、不安だから。怖いから。
みんな、そうやって生きているのだから、間違ってはいない。

表だってこういう風には、表現しないでしょう。
けれども、その薄っぺらい仮面の下には、このような在り方が渦巻いているのを、あなたは見ることが出来ますか?

そこには、苦しみしかありません。

そして、びっくりすることに自らはそれに気づけません。
気づけないのです。

私は、このこと自体に、本当に驚いています。
現実とは、不安と恐れのことで、この支配下のもとに、私たちは生きていると誰も言いません。言っている人は、本当にごく少数で、その発言に対して、誰も見向きもしないのです。

問題は、なぜ不安と恐れのもとに生きていかなくてはいけないのか?という本当の原因を探ることです。
不安と恐れが嫌だから、それを無くそうとすることではありません。

・箱を作って、閉じこもる

驚くことに、先進諸国と言われている国でも、こういうばかげたことを行っているのです。
人間、間違ったエゴがやることは、すぐにそれを無くそうとしたり、監視しようとしたりします。
たとえば、不安から発生した事件が起これば、二度とそういう事件が起きないように監視します。規制します。法律を作ってしまいます。

びっくりすることに、このような箱をつくれば、起こらないと考えているようなのです。
それはたぶん、そのような箱に入ることで、もう傷つくことはなくなり、安心を得られると勘違いしているのです。
そして、その箱の中でも残念ながら同じような事件などが発生したらー事実、それは必ず起こるのですがー、またヒステリックになって、さらに小さい箱を作るのです。

道理で生きにくいのです。どんどん小さい箱に間違ったエゴ、人類は閉じ込められていくのです。
それは間違いなく、自分たちで作っているのですが、全く気づきません。
そして、いつしか人類は、窒息するでしょう。

・本当の原因をあぶりだす

本当の解決の糸口は、事象そのものに対する恐れと不安に駆り立てられたリアクション(監視、規制、切除)ではありません。
それが起こった本当の原因を追究していくことなのです。
上っ面な原因ではなく、なぜそれが起こったのか?
そのコア、核心を捕まえることなのです。

そうしていけば、答えは必ず現れるのです。
その核心近くにあるのは、不安と恐れです。

そして、なぜ不安と恐れがそこにあるのか?
その原因を突き詰めれば、バラバラだと思っているから。
私たち一人一人は、違う個人の存在で、
ともかく自分を守らなければ傷つくこと思い込んでいるから。
その結論に行き着きます。

・幻想のドラマ

けれども、私たちはここで、それが本当の本当なのかを確かめなければいけません。
なぜ、分離していると思い込んでいるのか?
それは、本当なのか?
本当なら、なぜ本当なのか?

こんな簡単なことすら、全く気づけないのです。
私は幼いころから、ずっとみんな気づいていると思っていました。
気づいていて、わかっていて、もっと何か壮大な目的のために、あえてこういう世界を築いているのだと思っていました。

しかしながら、人類は、全然気づいていません。
人が、自分自身に気づける、ということがこんなにも難しいとは全くわかりませんでした。
つい最近になって、私はやっとそれがわかったのです。

もちろん、これは人が、人類が、間違ったエゴが、社会が、世界が悪いわけではありません。
世界は、そういう進行モードをとっているのです。それは、そういう風にできているのです。
そういう大きな脚本のもと、進行しているだけなのです。
重要な事は、その大きな脚本を書いているのが誰なのか?
それを見破る事なのです。それがあなたの仕事なのです。

ですので、このまさしく地獄という幻想のドラマは、脚本に従って続いていくでしょう。

・あなたがあなたを救い出す

地獄は、どこか遠いところや何かのきっかけで起こるのではありません。
今ここで、すでに起こっているのです。

同時に、天国もどこか遠いところにあるのではありません。
今ここで、すでに実現しているのです。

私もまた、神である。という理解は、この幻想に終止符を打てるものです。
なぜなら、分離ではなく全体だから。
この理解は、分離という幻想のゲームを終わらせます。

もちろん、世界はこのままです。
大切なことは、この不毛な世界、延々と同じことを繰り返す無限ループの世界から、奇妙なことにあなたがあなたを救い出さなければいけません。

その為の非常に有効なツールが、私もまた、神である。
という理解なのです。

なぜでしょうか?
何度も繰り返しますが、、この分離という幻想を終わらすからです。
この理解によって、本当に人生に責任を持ち始めるようになるからです。

それまでは、まさしく眠っていた人生でした。

けれども、この理解とともに人生を進めていくとき、そこには、いままでまったく触れることが不可能だった責任感が生じ始めるのです。

・信じられている神を調査する

さて、私もまた、神である。
という前に、私たちが一般的に信じている神とは、どのようなものでしょうか?

私には、宗教的なバックボーンがありませんから、詳しくはわかりません。

ただ、世界を観察する限りで言えば、間違いなく神というものは、人間とは違うものだ、という風に信じられているようです。

神というものは、ともかくどこかに存在していて、人間が出来ないことをも可能にしてしまうスーパーな存在である。

私が観察した限りでは、大抵こんな感じでした。

人は、たとえばすごいことがあると、何でも神を引き合いに出すようです。

「神のようだ」 「まじ神だ。」

あるいは、とても人間が対処できないことが起こると、すぐに祈ったり、願ったりします。

祈る対象や、願う対象がどこかにいるわけではないのに、ともかくこういう行動を起こします。

・矛盾していても、気にしない

幽霊やUFOというものは、見えないものだから信じない、根拠やエビデンスがないものは価値がない。というような信念が普及しているかと思いきや、お正月やお盆になると、神社などにいってお参りをしたり、先祖というもういないもの、見ることも触れることもできないものへの儀式のようなことを行います。

鐘を鳴らして、手を叩くことに何の根拠があるのでしょうか?
手を合わせて祈ったところで、一体誰が聞いているのでしょうか?

全く首尾一貫した行動をしてないのに、ある部分において、エゴである私たちは、頑なに自分たちの信念を一貫して守ろうとします。

一方で執拗なほど根拠を求め、ある時になると、まるでそんなもの関係ないかのように振る舞う。まったくばかばかしいにもほどがある行動をとっているのですが、なにせエゴですから、気づけません。

くどいようですが私は、つい最近まで、みんな冗談でこういうことをやっているのだと思っていました。
社会的なジョークでこういう生き方を採用していて、いざとなれば、すぐにでも、

「冗談でした~。さて、問題が行き詰り過ぎたので、これを解決しちゃいましょう」

というのかと本気で思っていました。

しかしながら、全然違っていました。
本当にわかっていないのです。気づけないのです。
自分たちが完全に常軌を逸してるほど、矛盾した信念を採用していることに全く気づけません。まさしく眠っていて、集団催眠にかかっているのですから、自分たち自体に気づけないのです。

最近人々を観ていてわかったことは、人は気づかないのではない、ということです。
気づかないのではなくて、気づけないのです。
これは、気づきは、超えている。というテーマで書いてますので、ご覧ください。

催眠にかかっているとき、人は自分で目を覚ますことはできないようです。
他のもののきっかけによって、たとえば催眠をかけた人が合図しなければ、催眠がほどけないのです。

こういうわけで、人は自ら起きることは出来ない、自ら気づくことは出来ないのです。

こうなると全員気づくことはできないのですが、そうならないように、目を覚ますことを脚本に書かれた存在が、メッセンジャーや聖者として現れたりするのです。
このような方々がなぜか突然現れて、「目を覚ますときですよ」というのです。

そして、残念ながら眠っていようが、目を覚ましていようが、この枠組みすべてがドラマですので、大した意味がありません。
なぜこんなドラマを始めたのか、誰にもわからないのです。

・なぜか助けてくれない

さて、私たちが信じている神や仏というのは、本当に役に立っているのでしょうか?
私たちが信じている神や仏は、私たちを本当に助けてくれているのでしょうか? 
結論から言えば、私が経験してきた限りでは、助けてくれません。

虫歯が痛くて仕方ないのに、治してくれたことはありません。
弱り果てた大切なパートナーを治してくれたことは、ありませんでした。
晴れていて欲しかったのに、雨が降ってきました。遠足は、中止になりました。

どんなに願おうが、祈ろうが、思った通りになることはありませんでした。

私たちが信じている神とは、多かれ少なかれ、あらゆる問題などあっという間に解決できる力を持っている、そして私たちを守ってくれているのが、神と思っています。
なんでもできるのが、神だと、私たちは信じています。

程度の差こそあれ、基盤となる信念は、まさにこのようなものです。

世界中には、問題しかありません。
そして、なんでもできる神は、しかしこの問題を解決しません。

・推測という毒

たぶん、解決しないのは、人間の試練だからだ、などという結論を出したりするようです。

けれども、これはひどいものです。
こういう結論を出す人が、実際に神にあって、話して、なぜなんだと問いつめ、答えを聞いて納得したのなら、こういう結論はわかります。

けれども、間違いなく、その人は、神に直接に合って、面と向かって、このような議論をしていないはずです。

問題は、こういう自分が知りもしない、あったことも話したこともない人が考え出した結論を、まるで疑わずにそうだと信じ込むことです。

これが催眠でなくて、何だというのでしょうか?
これは、催眠の中でさらにまた催眠にかけられているようなものです。
道理で、人は起きられないはずなのです。

また、信じられている神について、直接会ったこともないのに、推測だけで、これが起こらなかったのは、こういうことだからだ。
という結論を出すこともまた、愚かなことです。

推測は、推測でしかありません。
推測はなんの力もないどころか、大抵毒にしかなりません。
慰めにしかならず、安易な慰めは、問題を直視する、という力を奪います。

・愚かなゲーム

いくら神について勉強したところで、神に出会えるはずがありません。
人間、つまり間違ったエゴが構築した勉強というやり方に従っている限り、どうして神に出会える、というのでしょうか?

否、間違ったエゴの目的は、そのようにずっとずっと迷わせるために、このような勉強を編み出した、といえます。そして、びっくりすることに、それもまたプラン通りなのです。エゴを創ったのは、間違ったエゴではないのですから。

もし出会えた、という人がもしいても、その人だけにしかあてはまらないようなもの、あるいはその人曰く、条件に合致した人しか資格がないなどという条件丸出しのものは信じる価値がないものです。

いつ、どこで、どんな方法で誰にでも出会えるのなら、本当ですが、まったく再現性のないものなど、とりあう価値もないはずです。
こういう価値基準を人類は築いているはずなのに、肝心な場面では絶対に使いません。

だのに、こういう信じられないほど愚かなゲームがずっと続いているのです。

・すぐにでもわかること

神のために人を殺すのは、本当に素晴らしいことなのでしょうか?

世界史というものには、十字軍や宗教戦争というテーマを勉強する機会があります。
これは、もちろん誰かが書いたもので、私自身がそこにいたわけでも、見たわけでもないので、確かなのかはわかりません。

ただ、神のために、人を殺し争いあい、自らが信じている神を押し付けあうなど、愚かさを通り越しています。
なんでもできる神なのに、どうして押し付けなければならないのか?
そんな簡単なことすらわからないというのは、一体なんなのでしょうか?

そういう歴史を歩んできている神への信仰というものは、信じる価値があるかどうか、そんなこと誰にも教えられなくてもわかるはずです。

いえ、もちろんお正月になれば、お参りをし、ぱんぱんと手を叩いて、なんとかでありますように。と願ったり、礼拝をしたり、祈ることがそういうのが人生で、神への信仰で、私は大好きだ!

大病になっても、神に祈ることが大好きで、助けてもらわなくても構わない。
神に祈ることが大好きだ。
というのなら、それはそれで構いません。

それは、当人の役に立っているのですから、問題ではありません。

ここで言っているのは、こういう一連の信念がまるで役に立つものではなく、むしろ成長の阻害にしかなっていない、と気づいた方々のためのものです。

こういうわけで、私たちが信じている神、どこかにいるであろう神、何かあると降りてくる神というのは、役に立ちません。
実際、神がどの住所にいるかを突き止めた人は、いないはずです。

・神なんて信じない

また、こういうばかばかしい信念体系があるのを見て、世界のばかばかしさ、愚かさが演じられているのを見て、神など信じない、という人もいるでしょう。

それは、至極もっともです。
当たり前です。見れば、明らかにばかげています。
ちょっと調べただけで、とりあう価値がないことはすぐにわかります。
かくいう私がそうでした。

そういうわけで、神なんて信じない、という理解のもと、生きている人々もいます。

それは、確かにもっともで催眠にかからないだけの強さをもっている方々ですが、彼らをもってしても、どうしても理解できないことも実際に起こっているのです。

まさしく、神の仕業としか思えないことが起こるとき、その理由を彼らは説明できません。何かとてつもない働きがあったとき、それは誰の説明を受けずとも、わかるものです。

神を信じている方々は、結論を導き出しやすいですが、神を信じていない方々は、どうにも説明できません。

神を信じていない人々は、大抵現実的と考えられている科学や法律といったものを重視する傾向にあるようですが、とてつもない事象に対して、科学的な知識でアプローチしても、結局は、推測にしかなりません。
何度も言っているように、推測は最終的に毒なのです。

こういうわけで、無神論者もまた、限界を持っています。
盲目さから一見、逃れているようですが。
残念ながら、信じる/信じないの反対的立場をとっただけになってしまっています。

・神とは全部じゃないのか?

どこかにいる神も、どこにもいない神も今のところ、どちらも役に立たないようです。

そもそも神がいない場所や、いない時などというものがあるのでしょうか?
渋谷にはいて、新宿にはいない。そんなことがあるのでしょうか?

そうやって疑問に思えば、すぐにでも神とは全部ではないか?
という直感的な答えが導き出せるかもしれません。

もし神が全てなら、神が全部であるなら、私はその全部の中の一部であるのだから、私もまた、神になってしまう。

私もまた、神である。というものは、もちろん概念です。
ただ、あなたにとって、それはどういう感覚をもたらしますか?

それが一番大切です。

あなたの中の一番奥深いところで、揺さぶられる何かを感じられますか?

これは概念ではありますが、私が見る限り、最も可能性を感じる概念です。

・無関心という破壊的な在り方

あらゆる人が、私もまた、神である。ということを受け入れたのなら、人生は、とてつもなく責任を生じることになるからです。

私もまた神なら、すべての人もまた、神であることになります。
人だけでなく、あらゆるものもまた、神になってしまいます。

必然的にこういう理解が生じ始めることが意味するのは、自分が次にする行為がはたして、神らしいものなのか?

という疑問を生じさせるからです。

こういうわけで、私もまた、神である。という理解は、無関心という在り方を止めることにつながります。

今までは、個人として自分が思う自分にしか関心がありませんでした。
けれども、ひとたび私もまた、神である、という生き方をとりはじめたのなら、
あらゆるものへの関心につながることになります。

この理解がない限り、本当には私もまた、神である、という理解に至ったとは言えません。

私もまた、神である。という理解は、無関心という破壊的な在り方を終わらすことができるのです。

・無関心がいかに問題を引き起こすか

私が観る限り、世界の問題の大半は、人がびっくりするほど無関心によることが大きいということです。

あの車が欲しい、彼が欲しい、彼女が欲しい、
あれを食べたい、これを食べたい、成功したい、やりたい。

ともかく人が関心があるのは、自分とつながりのあることに限定されています。
自分とつながりのないものへの関心は、極端なほどなくなります。

無関心は、冷たさにつながります。
無関心な人は、冷たい人なのです。
冷たさは、固さを生じさせます。

冷たい人は、よって非常に固い人なのです。
それは、もう病的なほど自分が思う自分に固定されてしまっていることを意味します。

病気になるのは、大抵自分の体への無関心さから始まります。
無関心は冷たさを意味し、冷たいものは、固さを生じさせ、凝固します。
体を運営しているあらゆるシステムが動かなくなっていくわけです。

そのお酒を、体が欲しいと言っているのでしょうか?
誰がお酒が飲みたいと言っているのでしょうか?
誰がそれを飲んで満足するのでしょうか?

翌日二日酔いになるのは、はたして体からのサンキューという返事なのでしょうか?

胃はそれを欲しいと言っているのでしょうか?

腎臓がちゃんとした栄養素が欲しいというシグナルを出すのは、もう耐えきれなくなったときなのではないでしょうか?

私たちは、体からの痛みという信号をキャッチして初めて、自分がやりすぎたことを知ります。
いえ、それでもなんで病気になったのか?と疑うほど、人は無関心だということです。

無関心は、冷たいのです。
見て見ぬ振りほど、冷たい態度はない、ということを私たちはよく知っているはずです。

私はこれまで、たくさんの人と接してきましたが、家族を含め、いかに無関心さが問題を創りだしているか、はっきりと見てきました。

もし自分が思う自分と切り離したところで関心さを持つことができたのなら、世界の問題の大半は、なくなってしまうでしょう。

・全部神ならば…

私もまた、神である。という理解は、繰り返しますが、この無関心という在り方に
終止符を打つでしょう。

彼も私も同じ神なのに、どちらがすごい神ではなく、同じものなのであるなら、
彼をもし傷つけることは、では自分を傷つけることではないか?

空き缶を投げ捨てるのは、空き缶もまた神であるのなら、私は自分を投げ捨てていることになるのではないか?

このように、あらゆる瞬間に、そのような疑問が浮かび始め、自らの本当の目的へと向かい、歩を進めはじめることにつながり、あらゆる分離や分断というドラマの終焉をもたらすことになるのです。

・静かに日常で実践する

もちろん、このメッセージを読んでいる方にそんな方はいないでしょうが、だからといって、確かに無関心さが問題だとわかったからといって、走って世界を救おうとしてはいけない、ということです。

まず、私もまた、神である。という理解を日常で実践して、それが本当かどうかを確かめることが肝要です。

そうして初めて、自らが輝きだし、あらゆる存在への無言なる助けを行い始めるのです。
あなたは、それを知っていくでしょう。

私もまた、神である。

という理解を日常で実践していくことは、私自身の経験から、とてつもなく重要であり、これがマスターされていないと先に進む事はできないでしょう。

繰り返しますが、この理解がなぜ重要かといえば、自分自身の人生を意識的にとらえ始めることになるからです。
今までも、意識的だったというかもしれませんが、実際は違います。

やってみれば、すぐにわかります。

・普通の生き方

この理解は、一瞬一瞬の鮮烈さを求められるからです。

今までは、恐らく遠い将来に照らし合わせて、自分の行動を決めるだけだったのではないでしょうか?

あれこれになりたい。
だから、こういう道のり、こういうことを学んでいこう。

こういう医者になりたい。
だから、医学部に入って、勉強して、臨床を積んで云々。

ビジネスで成功したい。
だから、あれこれの大学を出て、有名な企業に入ってビジネススキルを磨こう。
そして、ゆくゆくは云々。

大抵は、ある未来の一時を目的地点にして、そこまでのプロセスを一歩一歩、歩んでいくというのが、おそらく模範的な人生なのではないでしょうか?
私が観てきた世界は、こういう世界でした。

ただ、そのターゲットは、現時点とかなり距離があるので、その間の瞬間瞬間の在り方は、大して重要ではありません。
要は、結果が出ればいいわけで、プロセスはある意味、重要ではないのです。

どれだけ愚痴を言おうが、悪口を言おうが、不親切であろうが、問題ありません。
結果が出ればいいのです。
逆に、どれだけそういうことに気を付けて生きていこうが、結果が出なければ、失格という烙印を押されるのがこの世界ですから、やはりプロセスは、全く問題ではないのです。

・これが私なのか?

けれども、この私も、また神であるという理解を実践していくことは、こういう生き方を捨てる、ということを意味します。

いかにプロセス、つまり一瞬一瞬を揺るぎのないものにしていくか?
一瞬一瞬を最高な状態で生きていくか?ということが重要になってくるのです。

『神との対話』にあるように、実践者は常に、「これが私なのか?」と問わなければならないのです。
これを自分自身に問えば、すぐに答えがわかります。
奇妙なことに、「それは違う」という答えがやってきて、求められている在り方に疲弊してくることもあります。しかしながら、一体誰が、疲弊するのでしょうか?

・家族との関係

かなり昔、母親が私の日常を見かねて、何をしているのかを問いただしたことがありました。

彼女にしてみれば、苦労して息子を育て、大学にもやり、いい教育を与えてきた息子が何たる体たらくな生き方をしているんだ、と怒り心頭だったのです。
もちろん、母親だけではなく、父親もまた息子に対して、絶望を感じていたようでした。

彼らにしてみれば、一流大学に入って、自分たちを助けて欲しい、と思っていたようです。息子が一流の会社に入って、良い役職に就けば、自分たちの近所の評判もあがる、というおなじみの考え方でした。
彼ら両親にとっては、いかに他人から自分たちが良く見られるか?
それだけが重要だったのです。

もちろん、こんな言い方はしませんでしたが、彼らを観る限り、事実そう言っているのが伝わってきました。

そういうわけで、言ってみれば、彼らにとって私は投資失敗物件なのですから、こういう風に詰め寄りたくなるのは当たり前です。

それで私は自分の身に何が起こったのか、そして”私もまた、神である”という理解を彼女に話し、一瞬一瞬を最高度に生きるために常に「それが私なのか?」と自分に問いかけて、生きている。と説明したのです。

母にこのことを話す際、私は躊躇しました。
直感的に、このことを話したって、彼女を傷つけるだけ、ということはすぐにわかりました。
進歩の段階において、つまり彼らのレベルからしたら、絶対に受け入れられないレベルの話だったからです。

けれども、彼女は非常にヒステリックになっていたので、しぶしぶ、私は自分の状態について説明したのです。

その時の彼女の顔は、案の定、本当にひどいものでした。
顔にまったく表情がなく、続いて、この子は完全に狂ってしまった。という絶望的な表情に変わったのです。

実際、彼女は、「あなたが何を言っているのか、さっぱりわからない。ただ、固い石をぶつけられているみたいで、非常に不愉快だわ」と告げました。

当時、既に彼らが眠っているのを見ていたので、わかっていた反応でしたが、やはりそこにはどうしようもないほどの救いのなさを感じたのを覚えています。

彼らは、よくわからないけれども世間でやっているから、時期になればある方向に向かって巻き寿司を食べます。
なぜって、やることになっているから。
やれって言われてるから。テレビ番組でやってるから。
それが本当かどうかを疑うほうが、狂っている。

なぜって、国が、お上が、世間が、みんながやっているんだから
だから、時期になれば、ある方向を向いて巻き寿司を食べ、時期になれば、豆をまく。
時期になれば、実家に帰って先祖供養をする。会ったことがなくても。
時期になれば、くそ重い神輿なるものを苦しくても持ち上げる。

その理由や意味や意義、効果についてはさっぱりわからないし、知ろうとは思わない。
みんなやってるし、今までやってきたのだから、やったほうがいいんじゃないか。
このような方々は、完全に眠っていて、起こされることを嫌います。

・それは、あなたのことではありません

ですので、あなたは、一人だけでこの私もまた、神である。という理解を日常で実践していかなければなりません。これは、拡声器で拡げるようなものではないのです。
静かに、一人だけで、自分自身の絶対的な意思のもとに習熟していく類のものです。

奇妙かつ、皮肉なことは、そうしていくと人々が吸い寄せられてくる、ということです。
間違いなく、人は違う光をその人に見出すのです。
そして、その時、あなたは彼らに何を話せばいいのか、すぐにわかるようになります。

彼らがどこにいて、何を欲しがっているのか?
何が不足していて、だから何で苦しんでいて、何を欲しがっているのか?
それを観るようになってきます。

私もまた、神であるという理解は、このような状態につながっていきます。
このことが何を意味しているかと言えば、それはもうあなたのことではない、ということを意味しているのです。

いままでは、個人の状態で眠っていました。
いままでは、自分だと思っている自分にしか関心がありませんでした。

しかしながら、この理解は、自分に前ほど関心がなくなってきていることを示しているのです。そして、相手を含めて観れることは、そこに前ほどの分離感がなくなってきている証拠なのです。

こういうわけで、私もまた、神である、という理解は最初から最後まで首尾一貫して求められる最も重要な理解なのです。

くどいようですが、世界は恐らくしばらくの間は、そのままのように感じるでしょう。
けれども、世界を救おうとしたり、変えようとしてはなりません。
大切なことは、静かに誰にも言わず、黙々とこの作業をし続けていくことです。

そして、その結果として、何が起きるかを、自分自身で見てみてください。

以上で、第3回を終わりにしたいと思います。

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