サークルの彼方へ

ゴールドクラス 4 あなたは全体

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前回は、「私もまた、神である」ということに触れました。

私だけが、神である。のではなく、私もまた、神である。です。
前者の生き方は、分離を促進させ、後者は全体への理解によって、分離の幻想に終止符を打っていく生き方でした。

今回は、別の側面から、あなたが分離した一個人でないと、どうして言えるのか?
私が全体である、ということは、どういうことなのか?
それについて、触れていきたいと思います。

・あなたの不思議さ

まず、一番最初に触れなければいけないのは、あなたの不思議さについてです。

人は必ず自分自身の不思議さについて、探求しないといけないのです。

私たちは、ごくごく当たり前のように自分であり、私であって、日常、自分自身の不思議さに当惑することは、あまりないのではないでしょうか?

自分というもの、私というものが、どれほど不可思議な存在なのか?
それを言われれば、私たちは大抵、「そうだ、私はそれを知っているよ。気づいてもいるよ」

というかもしれません。大抵、間違ったエゴはこのように反応します。

しかしながら、私が疑問なのは、であるのなら、なぜその不思議さを解明できないのでしょうか?

・誰も話題にしない。…のではなくて

こんなにも不思議な存在であるのに、休憩時間に話題になることはありません。
飲み会でも話題になることはありません。

人体についての不思議さはテレビで扱うのに、私についての不思議さについて、徹底的に究明している番組を見たことがありません。

言ってみれば、私は、自分自身以上に、このことについて本当に不思議でなりませんでした。

なぜ、このような個人があるのか?
それは、いったい誰なのか?
この私という感覚の不思議さは、何なのか?

これらについて、なぜ誰もかれもが無関心でいられるのか?
さっぱりわかりませんでした。

というより、私はずっとずっと、それはあまりにも当たり前のことで、既に解決済みなので、誰も取り上げないのだ。と思い込んでいました。

これらはすでに解決されており、世界はもっと偉大で崇高な目的のために前進しているのだと、本気で思っていたのです。
ですので、私は自分が落ちこぼれだとずっとずっと、思い込んでいました。

科学や算数、数学を理解する前に、これらを解決しないといけない。
そうしないと、みんなに追いつけないから。
私は、小さいころからずっとそう思ってきたのです。

けれども、そうではありませんでした。

誰もかれもが、扱わないのではなく、扱えないのです。
気づけないからなのです。

これは、本当に驚くべきことです!!

・素通りする
それほどまでに、眠りこんでいる世界とは一体、何なのでしょうか!?
私は、このことに本当にびっくりしています。
これほどまでに、催眠にかけれる偉業について。

こんなにも不思議な存在である自分というものを、誰もかれもが当然として日常を生きています。なぜなら、自分が不思議だということすら、気づけないから。

もし仮に気づいたとしても、大抵の人間は素通りします。
ドン・ファンが言及したように、大抵の人間は、精霊の訪問があっても見逃します。

間違ったエゴの覆いというものは、すでにそれほどまでに分厚くなっており、そこを気づきの輝きが貫通することは、通常、ないのです。

自分自身の不思議さに気づけることは、あらゆるもののからくりを紐解く鍵になるのです。それゆえ、絶対的に自分自身の不思議さに気づくことが最初に来なければいけません。それまでは、完全に眠りこけた人生なのです。

・ちょっとした試みから始める

さて、あなたがいかに分離した個人ではなく、実は全体なのか?
それについて、ちょっとしたことを試みてみましょう。

あなたは今、自分が人間であると思い込んでいます。
そして、その証明は、体があって、名前があるからです。

たとえば、あなたが日本で生まれ育ち、住んでいる所が東京であれば、自分が東京にいて、日本にいることを当然として生きるはずです。

そこで、自分自身の目からフォーカスをずらして、頭上から見てみてください。
5メートル頭上から見たあなたは、やはりあなたでしょう。

では、50メートル頭上から見たあなたは、どうなっているでしょうか?
もし繁華街にいるとすると、その他大勢の中の一人になりませんか?

自分を見つけ出すのが、ちょっと難しくなるかもしれません。

さらに、1キロ頭上から、自分を眺めてみてください。
そこにあなたはいるでしょうか?
見えるのは、街並みや川や海といった地形ではないしょうか?
あなたが、そこにいることを確認できますか?

もう米粒ほどで、輪郭すらはっきりわからなくなるのではないでしょうか?

あなたは、そこにいますか?
そこにいることを確認できますか?

さらに、10キロ頭上から、自分を眺めてみてください。

あなたは、そこに自分を見つけられますか?
10キロ頭上から見た場合、あなたはそれでも

「私は、そこにいるんだ!」と主張できますか?

そのことを同じ10キロ頭上であなたの隣にいる友人に説明する場合、
どんな説明をしますか?

あなたは、重要でしょうか?

・あなたは、そこにいますか?

さらに、自分が月になったつもりで、地球の日本という場所の、東京のどこそこにいる自分、あるいは、あなたが実際に住んでいる所にいる自分を眺めてみてください。
それを眺めていることを想像してください。

あなたは、自分をそこに見つけられますか?
そこにあるのは、地球ではないでしょうか?

自分と呼べるものは、米粒ほどでもなくなり、跡形もなくなり、代わりに地球がとってかわってしまいました。
間違いなく、あなたは、もう見えません。
そこにいることすら、妄想のような感じに思ってしまうかもしれません。

あなたは、重要ですか?

さらに、あなたが太陽になったつもりで、東京にいるあなた、自分が住んでいるところにいるあなたを見てみてください。

地球すら遠くにあるのに、あなたの体は、どれだけ現実でしょうか?

あなたは、重要ですか?

太陽からあなたを見た場合、あなたは点の中の点にも満たないのではないでしょうか?

それでも、あなたは重要でしょうか?

さらに、何光年も彼方からあなたを見てください。

もう地球どころか太陽系すら見えません。
それでも、あなたはそこにいると言えるのでしょうか?

あなたは、重要でしょうか?

他の星たちは、地球なんか知らない、というかもしれません。
地球すら点にもならないほどなのに、地球の表面に這いつくばって、動いているらしい一人の人間がいる。まったく見えもしない、大きさもないといえるほどなのに。

そんなあなたは、重要なのでしょうか?

重要だとしたら、誰にとって、重要でしょうか?

もしあなたが、地球から何万光年も離れた太陽より100倍も大きい星だったとしたら、地球という星にある日本という模様の中にあるらしい、点にも満たない存在について、どれほど関心を持つでしょうか?

・ほこりの中に宇宙はあるか?

ここで、別の角度から見てみるとしましょう。

あなたは、今何かしていると思います。

もしダイニングテーブルに座っているのなら、テーブルにあるほこりや塵を見つけようとしてみてください。
そして、そのちりやほこりの中にたくさんのあなたのような生命体がいるとしたらどうでしょう?

ほこりからしたら、あなたは巨大という言葉さえ不適格な表現です。
そのほこりが一種の銀河であり、その銀河の中に、太陽系のようなたくさんの星があり、その星の中に、たくさんの生命体が生き、動いているとするなら。

あなたは、それらに関心を持ちますか?
彼らが、どう生き、どう振る舞っているか?関心を持てますか?

・壮大な幻想

ダイニングテーブルは、食事をとる場所です。
そんなテーブルの上には、これらのほこりや塵が沢山あっても、あなたは今まで気にしなかったことでしょう?
関心をもったこともないはずです。

はっきりいえば、それがどうなろうと、どうでもよいはずです。
テーブルをふきんで拭いて、洗ってしまえば、それらのちりやほこりもそれまでです。

そこに何兆という生命体がいたとしても、あなたは気にも留めません。

同じように、太陽の100倍大きい星からしてみたら、あなたが死のうと生きようと関心すら持たないでしょう。
ふきんで拭くのと同じように。

全然、重要ではありませんね。

それでも、そんなちっぽけどころではない存在なのに、
あなたはこうして生き、感じ、動いています。
生きることに執着しています!

なんということでしょうか!?
これが、ドラマではないのなら、幻想ではないのなら、一体何なのでしょうか!?

・存在しているという絶対的な感覚

さて、さらに視点を変えてみましょう。

もう一度、東京に、そこに住んでいるあなたに戻ってください。

その視点に立つとき、あらゆるものを見てください。

もし体のサイズが、170センチであるとして、2メートルの人を見たらどうでしょうか?

あなたは、その人が大きいことを知覚しますが、その人の出現によって、あなたの存在感覚は、ぶれますか?
存在の感覚が、大きくなったり、小さくなったりしますか?

仮に、月が目の前にやってきたとしても、あなたの存在感覚は変わりません。

自分より大きい、という存在感覚がありますか?
自分より小さい、という存在感覚がありますか?

400メートルのビルを前にしても、富士山を前にしても、あなたの存在感覚は、変わらないことに気づけますか?

対象物は大きいですが、それによって、あなたの存在感覚がすぼんでいくことがありましたか?

・存在感覚の絶対性

逆に、アリを見てください。

アリは、あなたよりずっと小さいはずです。

だからといって、アリを見たとき、あなたの存在感覚が今よりずっと大きくなりましたか?

私の経験から言えば、大きくなることもなければ、小さくなることもありませんでした。

いつもいつも、そこには変わることのない、生きている、存在しているという感覚があるだけではないでしょうか?

恐怖や、畏敬という感情は起こるかもしれません。
けれども、その背後にある存在しているという感覚に変化はありません。

月を前にしても、太陽を前にしても、どんなに大きなものを目の前にしても、逆に、どんなに小さく、極小のものを目の前にしても、これは変わりません。

大きくなったり、小さくなったりしないというのは、なぜでしょうか?

なぜこれらを知覚しても、私の感覚はぶれないのでしょう?
なぜ、大きくなりもせず、小さくなりもしないのでしょうか?

それらが優先されるより、100%知覚している自分という感覚が優先されるのです。

なぜ、そうなのでしょうか?

・なぜって、全体だから

なぜなら、それらを知覚しているのは、意識であり、意識は全体だからです。

あなたという意識は全体だからこそ、何を見ても、変動しないのです。

太陽を観ようが、ビルを観ようが、アリを観ようが、そこにあるのは全体です。
意識という全体なのです。

アリという分断させられた意識もないし、それを観るあなたという分断された意識もないのです。
同じ意識だからなのです。

なぜなら、あなたは全体だからです。
太陽からしてみたら、あなたは点以下です。

それでも、あなたは自分の大きさ、完全さを把握しています。
なぜなら、最小のものも最大のものも同じ意識だからです。

そこに、分断、分離された意識などというものは、ないのです。

あなたは、全体なのです。
それゆえに、最小のものでも最大のものでも、同じ意識なのです。

これが、この世界のマジックです。

分離された個人というものは、完全に幻想で錯覚なのです。

太陽の1000倍大きい星から見たあなたは、細胞よりも小さい存在かもしれません。
そんな極小の存在であるにも関わらず、あなたは、自分が絶対的に存在している
ことを知っていて、その存在感覚は何があっても、変化しません。

意識は、全てなのです。
全ては、意識なのです。
分離は、実はありません。

最大のものも、最小のものも、同じ意識として全体なのです。

いいでしょうか?

これが、あなたという存在のとてつもない事実です。

これは、絶対的に覚えておくべき、そして知っておくべきことです。

こういう核心の理解を積み重ねていくことで、あなたは一歩一歩進んでいき、
やがて目の前にあるものを発見するのです。

以上で、ゴールドクラスの第4回目を終わりにします。

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