前回は、越えた者たち、というタイトルのテキストをあげました。
ここで一つ注意点ですが、彼らは超えた方々ですが、だからといって、それが最終的に超えるべき所ではない、ということです。
私がここで言及している彼らは、大雑把に言えば、第3段階ぐらいのところを超えた方々です。ギブアップの会のクラスで言えば、クリアクラスに入った方々と言えます。
もちろん、この段階に上がれる方は稀です。
何度も繰り返しますが、私がこれまで一般的な社会生活を送る中で、この段階で機能している人には会ったことがありません。
それまでの人生において、たぶん何百人どころではなく、千人以上の人と何かしらの関わり合いをしてきたはずですが、このレベルに到っている人に会ったことがありません。
会っていたなら、間違いなく覚えているはずだからです。
当然、このような人々の中には卓越した人はたくさんいました。
サッカーが鬼のように上手い人、やたら勉強が出来る人、やたら仕事が出来る人、やたらスキーが上手い人…。
挙げればきりがありません。
でも、彼らは一つ一つの種目というか、科目と言うか、分野においてはすごかったですが、それでも、この段階に到達している人は、一人もいませんでした。
一人もです。
たぶん、私と出会った方は感じたかもしれませんが、私は皆さん一人ひとりのこういった個人的な性質というか、属性には、全く関心がありません。
あまりに関心がないため、人によっては、私のことをまったく人間味がないと思われる方もいたかもしれません。というか、実際、そう指摘されたことが数え切れないぐらいあります。
それはなぜなら、そういった個人的な性質のあれやこれやは、本来のレベル、どれくらい進歩しているか、ということとはほとんど何の関連もないからです。
以前のテキストでも言及しましたが、たとえば英語の偏差値で75あっても、それはどれくらい進歩しているかとは何の関係もありません。
あるいは、鬼のようにAccessが出来て業務効率をあげられても、それが進歩をはかる”物”差しにはならないのです。
このことがはっきりと見えたとき、そういったものが究極的に無価値であることを瞬間理解したのです。
それ以来、私はそうなってしまいました。
それ以来、私はそういったものの代わりに、見るべきものを見るように差し替えが行われたのです。
これは、皆さんもそのように視野というか、視点というか、見るべき状態が取って代わるようになります。いつの間にか。いつの間にか、かつて自分が価値を置いていたからこそ、他人にその価値を投影していたおなじみの作業が終わり、代わりの視野が与えられるようになってしまいます。だからこそ、行為者はいないのです。
長くなりましたが、それぐらい稀なレベルです。
というか、一般的な社会生活で一人も出会ったことがないのですから、稀どころではありません。
前回のテキストでは、そのような方々について言及したわけですが、それでも、更なる状態があるのです。
もちろん、このようなプロセスは本来ありません。
なぜなら、既に完璧だからです。
完璧には、修正点やらプロセスが入り込む余地がありません。
ですが、間違ってしまった視野の中で動いていると思っている者の絵の中では、それが適用されていかざるをえません。
それは、まさしくどうしようもないことなのです。
ですから、彼らはまだ修正しなければいけない視野があります。
あるいは、さらなる進歩と言い変えられますし、癒しと言い換えても構いません。
その状態に向けて、彼らは既に歩き出しています。
(もちろん、その状態が具体的にはどういったことなのかについての指針は既に与えています)
このように、このテキストを読まれている皆さんは、更なるレベルがあること、そこに向けて進み続けなければならないこと(実際には進み続けることが起こっているわけですが)を知っておいていただければ。
以上、若干の補足でした。