私たちは、外側の何かを他人と共有できると思っていますが、実は、誰とも共有できないのです。

共有できないので、何とかしてそれを実現させたいと思うのですが、実際は何も共有できないのです。

私達は一人で苦しんでいる。
これが、実際です。

なぜなら、個人だと思っているからです。

バラバラな個人がどう他人と何かを共有できるというのでしょうか?

まったく筋が通りません。

よく観察してみれば、これは明らかなのです。

「今日ねー、こんな嫌なことがあってさー。
あのババァがさぁー。ふざけたこといってきてさー。ホント、むかついた。マジで死ねばいいのに。」

こういうフレーズは、誰もが耳にしたことがあるか、ご自身でしょっちゅう言っている(た?)のではないでしょうか?

こういう状態のとき、本人は苦しんでいます。

苦しんでいて、この時、私たちは一人ではない、という本性が働きだすことによって、逆に、他人も自分と同じ苦しみを感じていなければいけない、という勘違いに走ります。

だから、このようなことを他人に話したくなるのです。

苦しみもまた、共有してもらわなければ困るからです。

ですので、相手があまり聞いてくれてないような様子だとイライラします。

「ちょっと聞いてんの?」

こういう経験は、誰にでもあるはずです。

自分の苦しみは共有する必要があり、共有することでこの苦しみから少しは解放されると勘違いしているのです。

もし相手がきちんと聞いて同情してくれるのであれば、本人は救われた感じがします。

ですが、本当に救われたのでしょうか?
本当に共有できたのでしょうか?

あなたがこのようなことを言う方ではなく、逆に聞いている立場の場合を思い出してみてください。

相手がどんなに苦しいことや辛いことを話していても、あなたにとってそれは、想像の域を出ません。

”その人の代わりになる” ことは決してできない。

ということに気づかれた経験がある方は多いのではないでしょうか?

そうなのです。

その人の代わりになる、などということは出来ないのです。

その典型的な例は、病気になった時です。

たとえば風邪で苦しんでいる時、自分自身の経験からその人が苦しい思いをしていることは想像できますが、その人の代わりになることは絶対にできません。

私たちは、一人で苦しみ、一人で喜び、一人で悲しんでいるのです。
そして、一人で死んで行くのです。

これが、間違ったエゴ、個人の本性です。

かなり昔、私は心を許していた友人に自分自身が経験したことを話しました。その経験によって、私は深く傷ついていたのです。

そして、その経験によっていかに傷ついたかを彼に話し終わった後、彼は私が求めていたリアクションをとってはくれませんでした。思い切って打ち明けたのに、彼にとってはそれは重要な事ではなかったのです。その時初めて、人とは何にも共有できないんだ、ということを痛感したのです。

それは、私にとっては衝撃的な事実でした。

そしてその後、今度は逆の立場になって、それがわかったのです。

当時付き合っていた彼女が、その日起こった不平や不満を聞いている時、私は何にも感じていなかったのです。彼女の出来事や想いを、まったく私は共有していないことを、突如感じたのです。

では、私たちは、本当は一体誰に対して話しているのでしょうか?
では、私たちは、本当は一体誰と付き合っているのでしょうか?

ドンファンがカスタネダにこのことを話したとき、私は彼が言っている事がよくわかりました。その時、この理解を共有していたのです。

私たちが共有したいと望むことは、関心事を共有したいのです。
関心事が関心事として共有されれば、間違ったエゴは存続できるからです。

しかし、関心事がもたらす果実は決して共有されません。
誰もが一人で苦しみ、一人で悲しみ、一人で喜んでいるのです。

ですので、私たちが本当に望まなければいけないことは、関心事の共有化を終わらし、本当に共有化できるものを望むことです。
それがまさしく合一なのです。

自分一人で苦しんでいる。他人とは決して共有化できない。
このことがわかったとき、芋づる式に、では何が重要なのか?

そのことがわかり、だからこそ本気で自由へ飛び立つ準備が出来るのです。

ぜひ、本当にそうなのか、どうなのか。
自分自身の経験から答えを導き出してください。

これを単なる概念にはせず、自分自身の経験から答えを導き出してください。

それが出来た時、「あぁー、なるほど。こういうことなのか」ということがわかってきます。
そうでなければ、これもまた単なる概念に過ぎないのです。

【レベル】:クリアクラス~ユニティクラス