このタイトルが、全てです。

ここに鍵があります。

いわゆるゾンビ映画というのは、沢山あります。

たとえば、バイオハザードという映画があります。

ずっと昔、この映画を観ていて、

「この人たちは、いつ気づくんだろう?」

とふと疑問に思いました。

この映画は、確かTウィルスとかいうウィルスに感染すると人間がゾンビ化してしまう、という話でした。

ゾンビになってしまうと、ただひたすら健常と思われる人に襲い掛かり、噛み付くことで、同類を増やしていくような、そんな内容のようでした。あまり詳しく見ていないので、違うかもしれません。

ただ、非常に奇妙な光景は、ゾンビになった無数の人がただただ両手を突き出して、”健常と思われる人” を追いかけていくものでした。

そこでは、全員同じことしかしません。同じ目的しか持っていないようなのです。

ただ、襲い掛かり噛み付いて、殺す。

同じパターンしか出来ません。

この無数のゾンビの中で、一人も立ち止まれる人は現れませんでした。

逃げ回る人を追いかけるゾンビの集団の中で、あるゾンビが

「あれ?ちょっと待てよ。俺は、何をやっているんだ?なぜ、こんな風に手を奇妙にあげて、あいつを追っかけているんだ?なんで、こんなことをやっているんだ?」

と”止まれる” ゾンビはいませんでした。

同じウィルスに冒されたのだから、それは起こらないのでしょうか?
いえ、絶対に違います。
根拠はいりません。

私はこの映画を観たとき、初めて自分自身がいる場所の危険さに気づいたのです。

私にしてみれば、ゾンビというのは、何も映画の中だけに存在しているものではありませんでした。
私にとっては、ゾンビはあちこちにいる存在だったのです。

ゾンビというのは、つまり、眠っている個人の象徴なのです。
ゾンビというのは、つまり、私たちの事なのです。

誰も彼もが、自分が思っている自分に完全に眠っているのです。

ゾンビは、途中で止まれません。止まって、

「あれ?なんでこんなことやってるんだろ?なぜ、噛み付いているんだろ?他はないのか?」

という最も大事な疑問が起こりません。

同じように、この世界の登場人物のほとんどは、自分が眠っていることに気づいていません。まさしく、立派に起きていると思っています。

だから、自分がやっていることに気づけないのです。

だから、仲間と同じ振る舞いしかできないのです。

「同じ」

これがキーワードです。

そして、この同じ、という催眠にかかりながら、人生を終えていくわけです。

しかしながら、このゾンビ、眠っている個人の中で、止まれるゾンビが現れるのです。

「あれ?なんで、こんなことをやっているんだ?私は、一体、誰なのだろう?周りは、私の事を決め付けるが、それは私ではない。もし完全にそれがそうなら、私は自分が誰なのか?という疑問すら思い浮かばないはずだ。なぜ、私はここにいるんだろう?一体、私はここで何をしているんだろう?何のために?この私だと思っているものは、何なんだ?」

と自分を疑う事の出来る存在がポツンと現れます。

そして、この存在は、存在するだけで周り中に強烈な影響を与えていきます。
存在するだけで、他のゾンビの目を覚まして行く事が出来るのです。

いいでしょうか。

たとえば、バイオハザードという映画では、それはいくつかのシリーズがあるようですが、観た限り、そんな存在は現れませんでした。

なぜなら、これを作っているもの達のレベルがそこだからです。

まさしく、これは私たちの世界そのものなのです。

ゾンビが自分たち自身だと気づいた時、この世界の在り様は一変します。

なぜこのゾンビ映画がこんなに受け入れられるのか?
世界中の人々に観られるのか?

それは、私たちは自分たち自身に恐怖しているからです。

この映画の肝は、この無数のゾンビを本当に治すものは、クスリではない、ということです。間違ったエゴが誤って生み出したゾンビなのですから、間違ったエゴがそれを治すクスリを作れるわけがないのです。特効薬を見つけたとしても、それはまた新しい問題の始まりを告げるだけなのです。

こういうわけで、私は、止まれることの重要さを説いているのです。

ゾンビがゾンビである事に気づくこと。
個人であることが止まる事。

ここに、鍵があるのです。

【レベル】:ホワイトクラス~クリアクラス