欲望というのは、私たちが持つに値するものでしょうか?

もちろん、”適切な”欲望であれば、何も問題はないでしょう。
もちろん、ここでいう適切な、とは、故郷に還ること、もう一度一つのものに
戻ることを意味します。

しかしながら、私が経験し、世界を見てきた限りで言えば、適切な欲望というものはない、ということです。
欲望の性質は、”もっともっと” なのです。

欲望は、満足という事を知りません。欲望は、常に飢えている状態です。
満ち足りるという事と、欲望は一致しません。

欲望のゴールは、満たされる、満ち足りるということのように思えますが、そうではなく、欲望は、常に欲している状態なのです。

よって、ひとたび、人が欲望につかまると(欲望を長く捕まえるか、長く捕まえられるかすると)、ゴールのないマラソンに駆り出されることになるのです。

欲望が終わるとき、それはあなたのエネルギーを吸い尽くして、カラカラになるときです。
その時、あなたはすでに、体もしわしわで心もしわしわ、もうそこは真我が、神が、精霊が宿る住処ではなくなっているのです。

このようなことがわかっていますが、さらに欲望が何をもたらすか?欲望が解決策をもたらしてくれるのか?ということを検証するために、一つの例を見てみましょう。

たとえば、フェラーリという車があります。

フェラーリがいくらぐらいの値段がするのか?私には、よくわかりません。
たとえば、フェラーリが2千万ぐらいで買えるとしましょう。

車で2千万という価格は、とびぬけています。

もし、フェラーリを買うことをずっと憧れていて、そのためにお金を稼いで、お金を貯めて、とうとう購入できた!とします。

それは本当にうれしいことでしょう。
ディーラーに出向いて、契約書などもろもろの手続きをして、いよいよ我が家にあのフェラーリがやってくる!それは、本当に心躍る時だという事は、もちろん、容易に想像が出来ます。

しかし、その瞬間までが恐らく、最高最大のものになります。

あのフェラーリが自分のものになった瞬間から、喜びはどんどん小さくなっていくでしょう。そしてまた、その喜びとともに、正反対のものがやってくるのです。購入するまでの欲望に捉えられている間、本人の中には、持つことによるイライラや苦しみはありません。持てない苦しみはありますが、持ったあとのことは想像できないのです。

フェラーリを買った彼の半年後は、どうでしょうか?
もちろん、ガレージから出すとき、運転している時、高揚感はあるかもしれませんが、それは永遠に続きません。

風邪をひいて高熱が出て動けない時、フェラーリに乗りたいと思うでしょうか?
フェラーリが風邪を治してくれるでしょうか?
もしそうなら、フェラーリを買う意義もあるかもしれません。

フェラーリを運転している時、自由でしょうか?高揚感はあるかもしれませんが、信号が赤になったら、どうなのでしょうか?止まらなければいけないのではないでしょうか?赤になったら、止まる。これは、2千万の車だろうが、10万の中古車だろうが、変わりません。

自動車を運転したことがある人なら、誰もが赤信号のうっとうしさにイライラしたことはあるはずです。2千万の車に乗っていても、間違いなく信号につかまると、イライラするはずです。2千万だからと言って、イライラがなくなるわけではないのです。
もしまったくどんなに赤信号につかまっても、まったくイライラしないんだよ。
というのであれば、確かに買う価値はあるかもしれません。

さらに、2千万だからと言って、赤信号を無視すれば、捕まります。
フェラーリだからと言って、許してもらえるでしょうか?

もし2千万もするフェラーリだから、赤信号でも渡っていいよ、というのなら、
少しはもつ意義はあるかもしれません。しかしながら、おそらく現状では、
高級車だろうがなんだろうが、特典はありません。
もし赤信号でも渡っていい、ということであっても、危険極まりないものです。

また、運転している時、調子に乗って、エンジン音にのせられて、ハイスピード
で運転したらどうでしょうか?制限速度を、大きく超過してしまったら、捕まる
のではないでしょうか?ではいったい、何のためのエンジンなのでしょうか?何のために、スピードメーターが180なんてついているのでしょうか?

少し話がそれますが、まさしくこの世界のルール、この世界での規律が何なのかを、スピードメーターが教えてくれていると思いませんか?

「ほら、出してみなよ、すごいよ。こんなにスピードだせるんだから。でも、その対価(苦しみ)は、味わえよ。」

非常によく現しています。

(つづく…)

【レベル】:クリアクラス