サークルの彼方へ

背の高さと景色

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※このページは、テキストの『背の高さと景色』計4回分を一まとめにしたものです。(テキストで追いかけると見づらいため)

さて。

今回は、私たちが進んでいく上で、まず最初に知っておきたい事柄の一つについて触れていこうと思います。

このことについては、当初、それがどれほど重要なのか、ということが全くわかっていませんでした。

けれども、経験していけばいくほど、その重要性について再認識を重ねていくことになりました。

このテーマについて、皆さんが知っておくことによるメリットは、このことを受け入れる事で、間違ったエゴ特有の自惚れや自尊心、傲慢さからほんの少しでも外れる事が出来る、という点です。これはどういうことかといえば、これを知る事で、それはそうではない、ということが先に来るようになります。

それはそうではない、ということは、もう少し言えば、それはそうではないかもしれない、というニュアンスになります。
そして、それはそうではないかもしれない、ということを詳しく言えば、それは、私が今はそう判断しているが、違うことになるだろう。たぶん、そうだと思う。という認識を持つ事が出来るようになる、ということです。

これは、一見、何の変哲もないことに思えるかもしれません。
がしかし、それはそうではありません。
なぜなら、こういう認識に到る、ということは、間違ったエゴから相当抜け出ていることを意味しているからです。
間違ったエゴは、常に自分を絶対視します。
その牙城は、絶対的な力を誇っており、難攻不落として知られています。

けれども、この難攻不落の城の中枢部に良い意味でのウイルスが忍び込むのです。それが、このような認識です。

このウイルスは、増殖していき、やがてこの城を崩壊させることになるのです。

ですから、この認識、理解は、非常に重要だということが、わかります。

さて。
では、それは、一体どのような理解でしょうか?

それは、いわば、背の高さに応じて見える景色が異なる、ということです。

この概念については、すでにテキストで触れています。
けれども、あまりに重要なため、何度も触れていく必要があります。
いわゆる、しつこいぐらいが丁度いいのです。

☆何も実現しない原因 -3

ここで書いたように、それは具体的に言えば、このように言うことができるのです。

「身長が100センチの人は、100センチの景色しか見えない。けれど、身長が200センチの人は、200センチの景色を見る事が出来る。つまり、100センチの人は、200センチから見える景色を見る事は決して出来ない。」

ざっくりと言えば、このようなことです。

これは、本当にすごく重要な理解です。

これを別の言い方で表現していたのが、ラメッシ・バルセカールだったと思います。

彼は、このことをこんな風に表現しています。

「だからクリシュナは、そのレベルに降りていって、その人のレベルに応じた理解を授けているだけなのです」

というように。
つまり、出会う人それぞれのレベル(比喩的な意味での身長)に応じて話さないと、その人たちが見ている景色の中で話すことによって、理解を促進する事が出来る、ということを、彼は指摘していたように思います。

このこともすでにテキストで触れてきましたが、私自身の経験から、よくわかるのです。
本当に、その通りだな、と。

ですので、このテーマにおいて、私たちが少なくと理解しておかなくてはいけないポイントを、再度ここからあげていこうと思います。

まず最初に言える事は、一気に成長することはできない、ということです。

先述したテキスト内でも言及しているように、いきなり身長が明日100センチ伸びないのと同様、いきなり明日、例えばブッダやイエス・キリストというマスターのレベルにあがる、というようなことにはなりません。

私自身の経験同様、他の人々を観察しつづけてきましたが、確かにそう言えます。

どうして、このように言うかといえば、間違ったエゴはいきなりゴールしたいと望むからです。間違ったエゴは、面倒くさいのは大嫌いです。

一つ一つ、一歩ずつ、こういうのは、とにかく間違ったエゴは嫌います。
それよりも、効率的に、一気に、というのが大好きです。

ではなぜ、一つ一つ、地味に成長するのが嫌いなのかといえば、実現してしまうからです。実現してしまえば、間違っていないと思っていたのが、間違っているとバレるからです。間違ったエゴは、これを恐れます。
それが偽りであると見抜かれるほど、間違ったエゴにとって恐ろしい事態はありません。それが見抜かれれば、間違ったエゴが作り上げた張りぼての王国が崩壊してしまうからです。

だから、間違ったエゴは、それがとろくさく、もっと効率的な、先進的なやり方があるんだぜ、と誘いかけてくるのです。

また、別の意味でなぜ面倒が嫌で、効率的を最優先するのかと言えば、間違ったエゴは、神に嫉妬しているからに他なりません。

本来、つまり神は時間を知らないので、瞬間に、というより既に実現しているのです。
ですから、時間をかけるのではなく、間違ったエゴは神と同様、そのレベルで機能したいと思っているのです。

けれども、そうしたところで、結果は常に、間違っています。
なぜなら、根本的に間違っているからです。

ですので、効率性や便利さを追求し続ける無限ループに陥るはめになり、けれども、それで苦しむわけですから、間違ったエゴの目的に沿っているのです。

苦しんで死ね、というのが、”この”世界の一貫した目的です。

「トータルな認識には、トータルな認識のレベルにいなければならない。子供のままのレベルにいる限り、トータルな認識が何なのかをわかることはない。子供のままのレベルである、ということは、そのレベルで機能することになる」

私自身、この教えに触れたとき、本当に愕然としたのです。

いきなりトータルな認識、全的な認識には到れないし、そこに到るためには、身長が伸びるのと同様、一歩一歩進歩していかなければいけない。

一体、どれくらいの歳月を要するんだろう?
とクラクラとしました。

けれども、とにかく進まなければ行けない事は明白なわけで、私自身がやるべきことをまず一つ一つ諦めずにやっていくしかなかったのです。

このようなわけで、あなたもまたそうなのです。

とかく、めんどくさい、手っ取り早く、効率的に。

こういうフレーズばかりに頭がいくようですと、あなたの道は超絶に困難になります。あるいは、進んでいると自分が思っているだけで、何十年もかけて1ミリも進んでいなかった、ということになります。

なぜなら、いわば身長が5センチの所で機能しているのに、3メートルにでもなったつもりで生きているからです。

そうすると、やってきた”投資”に見合わない結果として、怒りに満ち、非難の人生、犠牲者の人生を送ることにつながりかねません。それは、容易に起こりうる事態です。そういう人は、吐いて捨てるほどいるのです。

そして、それこそが間違ったエゴが求めている人生なのです。
苦しんで死ね、というのが、ルールだから。

ですので、まず私たちは、いきなり頂点に達する事はできず、積み重ねていくことが求められている、ということを受け入れる必要があります。

つまり、いきなり頂点に達することが出来る、ということがそこに含んでいる意味は、楽である、簡単である、ということです。

ですので、楽なやり方、安易なやり方、効率的なやり方を見つけるとき、それは要注意のサインだ、ということです。
なぜなら、本来、神は確かに楽で簡単ですが、これが間違ったエゴが提供している場合には、そこには死のメッセージが含まれているからです。

それを見分ける事は、そのレベルのままでは出来ません。
出来るように思えても、必ず間違えています。

皆さんには、このことをぜひとも受け入れていただければと思います。

ただ、この理解の問題点は、では自分自身がどの程度の段階にいるのか?
それが客観的にわからない、ということです。

それを数字などで現す事が出来れば、誰もがある程度、納得がいくのでしょうが、そういうものは今の所、ないのですね。

そこが導き手が難しくなるところなのですが、こういう理由から、たとえば、デヴィッド・R・ホーキンズさんのようにレベルを客観化する仕事に従事している方などが現れるのです。

こういうわけで、客観化できないがために、今、自分がどのあたりにいるのか?それがわかりません。そして、わからないがために、たとえば、まさか自分が5センチのところをうろうろしている、とは気づかないのです。

こういう例は、もちろん膨大にあります。

グループミーティングやクラスに参加された方であれば、ここで言わんとしていることがどういうことなのか?痛いぐらいにわかるのではないかと思います。

ここで、典型的な例を一つあげてみようと思います。

これは、かなり昔、私のもとを訊ねてきたある人物の例です。

その方と話している中で、ふと、私とは一体、何なのか?何者なのか?誰なのか?という内容に入ろうとした瞬間でした。

その瞬間、その方は、自信満々に

「いえ、そんなことはもう知っています。私は、もうそれについてはわかっているんです」

と言い放ったのです!

つまり、そんなくだらないことではなくて、もっと私が知りたいことについて話せよ、という要望でした。

で、私は面食らった……
わけではありません。

もう知っていたからです。

その方がそういう風に発言しても、なんらおかしくはない、ということをもうすでにわかっていたからです。

その方とは、もちろん初対面でしたが、一目見た瞬間、私はわかりました。
「あぁ、なるほど」と。

このようにもうわかっていたので、そのように言い放っても、何も驚くことはありませんでした。

その方は、わかっていると自身満々に言っていましたが、
私が見える事は、「全くわかってないな」、ということでした。

ただし、この方が間違っているか?と言われれば、それは違います。
けれども、それは やはり間違っていると いう事になるのです。

これはどういう事かといえば、その方のレベル、段階ではわかっているのです。確かに。
だから、正しいのです。
その方の身長から見える景色、理解は、その身長からで言えば、確かに間違っていないのです。わかっていると思って、当然なのです。

ですが、間違っています。
なぜなら、もっと上のレベル、もっと高い身長からでは、そうではないからです。
その方は、全然わかっていませんでした。
わかっていないことをわかっていませんでした。
つまり、知っている事を知らないのではなくて、知らないことを知りませんでした。

ここでの問題は、その方は、更なる上のレベルがある、ということを今までの人生で経験してこなかった、ということなのです。
疑いなく、そのような存在に出会ってこなかったのです。

このように、わかっていないことを自覚しているならまだいいのですが、わかっていると強く思いこんでいる人の場合は、非常に非常に非常に厄介なのです。

ですので、もちろん、あなたは間違っています。とは直接言わずに、いかにその方がわかっている、と思っている事がわかっていないのか?
それをあらゆる話し方で理解させなければいけませんでした。

これが、先述した、ラメッシ・バルセカールが言及していたクリシュナの話しの例です。

ここで挙げさせていただいた方の例は、典型的です。
その方は、自分自身がどのレベルにいるのか?
まったくわかっていませんでした。

例えば、自分が5センチぐらいのレベルにいることに、全く気づいていなかったのです。むしろ、自分自身は相当ハイレベルな人間だと思い込んでいるようでした。確かに、人間としてはハイレベルですが、人間を、個人を超えていない、というところが一番の問題なのですね。

ですので、進歩の歩みが、全くもって遅かったのです。

けれども、結局、その方は話を進めていく内に、次第に状況を呑み込む事が出来たのです。
その方の顔は、最初、あの間違ったエゴが全面に出ていましたが、終わる頃には、顔にはわかってきたあの光が差し込んできているのが見えてきました。

なぜこうなったかたと言えば、その方は、実は非常に素直だったからなのです。(一目見た時、それも見えてはいました)その方は、自分自身がいかに間違っていたのか?それがわかると、すぐに心を開き、それを受け入れる事ができるだけの素直さを持っていたからに他なりません。

私自身も、こういう経験を通じて、やはり素直である事、心を開く事がいかにキーであるのか、それを再度確認することができたのです。

このような例をとおして、私たちがいかにわかっていると思っているだけで、実はわかっていないのか?そこには、おぞましいほどの自惚れや傲慢さが漂っていて、私たちは、これを何とか終わらすこと、終わらしたいと望む状態にならなければいけないことがわかります。

そして、そのような状態になれば、次第に身長(レベル)は伸びて、2メートルや3メートルでの景色を見れるようになるのです。

それがトータルな認識、全的な認識、合一や全託、目覚めた眠り(全て同じ意味です)を機能させていく道筋だということです。

では、再度、どうすればこのレベルを、身長をたとえば5センチのところから、3メートルや4メートルというように伸ばしていく事が出来るのでしょうか?

それには、何よりもまず、成長したい、進歩していきたい、という意欲があることです。それがなければ、本当に全く成長していかないのです。

これは、ある意味当たり前だ、と思う方もいるかもしれません。
がしかし、本当に進みたい、と意欲を持つ人は、実はあまりいません。

その先に待っていることが、偉大であればあるほど、人はしり込みするのです。
この世界に流れる人を観察し続け、何十年と生きているにも関わらず、1ミリも成長していない人は、ざらにいることがわかりました。

彼らは、完全に眠っていて、人生が何のためにあるのか?ということすら、疑問に思った事がありません。(こうして言われれば、”反応して”そんなことはない、と言い出すことも彼ら特有です)ただ、親や社会が言っている事を盲目的に受け入れて、ただ生まれて、結婚して、子供を産んで死んでいくのが人生だと思っているのです。

彼らは、いのちを、スピリットを、神を知りませんし、知りたいとも思っていません。望んでいないからです。その意欲がそもそもありません。
ですから、意欲は絶対必要条件なのです。

この意欲と同様、素直である事、心を開くこと、傲慢さよりも受け入れていこう、という態度を人生で重要視し、それをコツコツと実践していくことが出来る人は、自然と進歩していくものです。

こういう素養がある人は、何をしようが、進歩成長していきます。
瞑想が必要でも、座禅が必要なのでもありません。
メソッドや方法論が重要なのではないのです。

それらは、ほんのレシピの一つになるかならないかぐらいのものなのです。
それらは、結果として意味をもつもので、先に意味を持つものではないのです。

ここで、カチンときたり、何故かイライラしたり、反論したくなるような気分になるのなら、それはそういうレベルにいる、ということを”すでに”示しています。

この理解、すなわち、

「5センチの身長から見える景色と、2メートルの身長から見える景色には違いがあり、その身長になって初めて見える景色を見る事が重要なのである」

は、皆さんが今後、人生を歩まれていく中で腑に落ちていくことになります。

そして、何よりこの理解を忘れないでおくことによって、常に心を開き続けることが可能になり、その開いた扉には、当然のごとく、あの存在からの遣いがあらゆる方法で訪れる事になるのです。

以上、今回は、私たちが本来、はじめに理解し、覚えておきたいテーマについて触れてみました。

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