さて。

私がこうしてお伝えしていることは、いわゆる悟りや覚醒といった概念も含まれています。(ただ、私はこういう単語を好んで使いませんが)

ですので、皆さんも、

「覚醒したい」
「悟りたい」
「目覚めたい」

といった欲求を持っていたりして、サイトのテキストを読んだり、クラスやグループミーティングなどに参加するのだと思います。

それはそれで、よくわかる心情です。

ですが、私自身、実はそのように思った事がなかったりします。
私自身に関して言えば、目覚めが起こるまで、ただの一度も

「あー、覚醒してー」
「あー、悟りてー」

と思った事がないのです。

そういう憧れというか希望というか、欲求というか、そういう具体的な想いがないまま、目覚めることが起こったのでした。

ですので、悟る為に、覚醒する為に、当然の事ながら、瞑想をしたことがありませんでした。瞑想については、別のテキストにあげようと思いますが、そういう類の”もの”をしたことが、人生で一度もなかったのです。

というわけで、私は一度も瞑想をせず、目覚めてしまったわけですので、瞑想をすれば悟れる、とか、瞑想をすれば覚醒できる、とは言えません。
そして、このような”物”言いに納得できない人も大勢いることでしょう。
さらに、もし納得できず、反論したくなったりする場合には…。
テキストを読み続けてこられたかたなら、もうその後はわかると思います。

さて。

このように、それまでの人生において、私は悟り、覚醒、目覚めといった概念とは無縁の生活を送っていたわけです。

そういうものは、完全に私自身の生活圏外にありました。

そして、私自身、そのようなものをどこかアホらしいことだとさえ思っていたのです。

では、こんな状態であったのに、ではなぜ、目覚めが起こったのでしょうか?

その答えは、こういうことです。

私は、ただただ、

「俺は、一体、誰なんだ?」

という答えが知りたかった、からに他なりません。

幼稚園のときに起こり、そして引き続き起こったあの現象を境に、

どこまでもどこまでも、どこまでも

「この俺、俺というものは、一体何なんだ?誰なんだ?一体、どこからやって来たんだ?」

という疑問が人生の中心を占めてしまっていたのです。

その答えを探しにまさしく這いつくばるようにして、人生を進めていったわけです。
どのフェーズ、小学生だろうが中学生だろうが、高校生だろうが、大学生だろうが、社会人だろうが、常にこの疑問がわかるための人生だったのです。

私は、知りたくて知りたくて、たまりませんでした。

そして、ついに目覚めが起こり、グランドピクチャーを観る事になった後、それはあまりにすさまじい流れでした。そして、あまりに完璧でした。
光り輝く状態で人生を観るとき、それは、本当に絶句することになるのです。

その当時の私は、まさか自分がそんな道を歩んでいるとは、つゆとも知りませんでした。ただ、知りたいだけであって、それが普通で自然だったのです。

ですが、この

「私とは、一体、誰なのか?」

という疑問の答えこそが、悟りであり、覚醒だった、ということだったのです。
皮肉な事に。

つまり、たとえば高校生の当時、

「この俺って、一体、誰なんだ?」

ということが悟りと関係あるどころか、悟りの核心部分を扱っていたとは、全く思いもしませんでした。

その当時、悟りとは、私にしてみれば、よくわかんねー修行の結果、ぐらいにしか思わなかったのです。
それは、私にとって、あまりに宗教まみれであり、近寄りたいとすら思わない代物でした。

こういうわけで、悟りとは全く無縁の人生のように見せかけて、実は、そのど真ん中を歩いていたわけです。
ここで、皆さんが気づかなければいけない事は、つまりスピリットとはそういう働きをする、ということなのです。
もし、私が悟りとか覚醒、解脱といったものに夢中になっていたとしたら、決して、このようなことは起こらなかった、ということなのです。
だからこそ、そういうものを遠ざけておいて、知らぬ間にど真ん中を歩くようにはからっていたわけです。

このようなルートを通って来た私からすると、ですから、悟りたいと思っている人であったり、覚醒したいと思っている人、すごく瞑想をして目標に向けていそしんでいる人を観察していると、ある事が見えるようになりました。

これは、よく聞いておいてください。
というか、もうこの時点で、間違ったエゴは耳をふさぎたくなっているはずです。もし、目を背けたくなったり、すごく嫌な気分がしたり、焦ったりする場合、あいつがそうしているわけです。

(つづく)