それは、犠牲者、被害者意識だ、ということです。
この映画に一貫して宿っているのは、被害者意識、犠牲者意識です。
被害者であるのに、どうして目覚める事が出来るのでしょうか。
呼び起こされるのは、私たちの本性、目覚めではなく、犠牲者や被害者ですので、
怒りなのです。怒りが呼び起こされるだけになってしまいます。
怒りが目覚めに繋がればいいのですが、怒りとは感情です。
感情から、真の目覚めには繋がらないのです。
さらに、案の定というか、この映画の底辺に一貫して流れているもう一つのものは、男と女のラブロマンスです。
ラブロマンスは、ラブロマンスであって、愛ではありません。
どんなにドキドキするような男女関係でも、一時的なものに過ぎません。
関係性は、常に変化を意味していて、不変なものではないのです。
一時的なものは、厳しい言い方をすれば、偽りなのです。
ですので、この映画の底辺に流れているものは、偽りということになってしまうのです。
ですので、力が宿らないのです。
また、この映画の中では、進歩の基準が、またしてもテクノロジーになってしまっています。
戦闘とテクノロジーのみです。霊性は、ありません。
では、宇宙を支配している王族たちは、一体、どのような類の存在だったでしょうか。
彼らが気にしているのは、そう。
おなじみのやつです。
彼らが気にしているのは、自分が思っている自分だけなのです。
またしても、自分です。
宇宙の王族だろうがなんだろうが、自分というイメージに翻弄されているだけです。
自分が大事で、自分に紐づく権威、名誉、名声、富、キャリア…。
このようなガラクタに執着し続けています。
今、地球で生きている人間となんら変わりはありません。
ですので、この映画には、大切な力が宿らないのです。
これを作った方々の意識レベルが、この映画にモロに反映されているのです。
つまり、彼らはまだ、自分が思っている自分に忙しいのです。
本当の出口を知りません。
ですので、本当の出口を求める人、合一に進もうとしている人が、この映画を観ても、単に素通りしてしまうことになります。
一方この映画が、面白い、すごいアクションだ、かっこいい、というような感想を持つ人は、つまり、そういうことだ、ということです。
もちろん、私は評論しているわけではありません。
そういう風に見えるかもしれませんが。
重要な事は、あなたがこのような映画を観て、もしも何の感動も覚えないのにはちゃんとした理由がある、ということなのです。
ある意味、自分自身がどこにいるのか。
すさまじい場所に知らない間に到達していることを、逆にこのような映画は教えてくれている、とも言えるのです。
ためしに、見比べてみてください。
優劣、ということではなく、いかにそこに反映されているものが違うのか?
そして、あなたの中でそれを観た後、どのような感覚が湧き起こるのかを観察してみてください。
あなたはきっと、「あぁ、なるほど。そういうことか」とわかることになるでしょう。
(おわり)
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