もちろん、これはこれで一向に構わないのです。
実現する事は決まっているのですし、そもそもレベルなどないのです。
実在にレベルという”もの”は、存在しません。

ただ、私たちはこの相対的な夢の中で動いていると思っているわけですので、その中ではこのような演技を、役割を担っているのです。

ですので、自分自身が自分だと思っている自分であり、かりそめの演技をしているだけである、ということを完全に思い出し、単に役者として演技している事を完全に観ているのであれば、問題ありません。

ただ、ほとんど全ての人は、自分だと思っている自分に眠っているので、まさか自分が演技をしているだけである、演技をしている自分という夢を観ているだけであることなど受け入れられないのです。

それほど、自分だと思っている自分に”夢中”になっているのです。

更に言えば、レベルというものはありますが、ありません。
ということをしっかりと理解しなければいけません。

レベルはありません、ということは既に見てきたとおりです。
レベルがある、ということもこれまた見てきたとおりですが、もう少し補足するのであれば、たとえば、イエス・キリストとあなたにはレベルの違いがあることは、明らかです。どう頑張っても、彼の達した理解に、まだあなたは達していません。ということは、やはりレベルはあるわけです。

違う見方をするなら、幼稚園の年少の子とあなたには明確な違いがあります。

年少の子は、レジで会計も出来なければ、一人で旅行することも出来ません。
けれど、あなたには出来ます。この子は、社会の事をほとんど何も知りませんが、あなたは彼よりずっと多く知っているはずです。

よって、年少の子とあなたは、同じではありません。
明らかに、レベルが違います。

このように、レベルはありませんが、あります。

そして、私たちが苦悩するのは、この後者です。

これは、先述したニサルガダッタ・マハラジの例からも明らかです。
彼は、明らかにそこにレベルを見ていたわけです。
もう6年も通っているのに、何の進歩のなさを見て、もうとっくにわかっていていいところなのに、まだうろうろしているのを見て、唖然としたからこそ、そう言ったのです。

このように、まず私たちはここをしっかりと理解しておかなければなりません。

さもないと、いつの間にか、「レベルなんてない」と概念だけ、頭だけでわかったつもりになって叡智にはつながらず、何の進歩も遂げられないまま死んでいくことになりますし、逆に、「何のブレイクスルーも起こらなかった」といって、憎しみにかられて死んでいくことになってしまうからです。

どちらも間違いであることは、明らかです。

(つづく…)