私たちが到達すべき場所は、既に実現している、ということが相変わらずの事実です。

既に実現しているものを、ことさら探す必要もなく、目指す必要もないのですが、私たちは間違ったエゴという幻想にとらわれ、セットとして体を与えられたわけです。

その為に、私たちは事実に対して完全に盲目になってしまっています。

全てが実は存在しているのですから、問題なのは、それを錯覚している当の本人の認識なのです。

よって、私たちは事実を知るよりもむしろ、偽りを知っていく作業を行わなければいけません。偽りが全て偽りだと見抜かれた時点で、事実は当然のごとく、現れるのです。

ですので、真我を、神を、実在を知る必要はなく、偽りを見抜かなければいけません。
真我は、あなたによって実現するわけではありません。
すでに実現されているものが、一個人、間違ったエゴによって現すこと、創ることができるわけがありません。ゆえに、私たちは、行為者ではない、といわれるのです。

さて、そのようなことが明白なわけで、では、偽りをどう見抜いていけばいいのか?ということが、私たちのテーマになります。

ありがたいことに私たちはすでに真我なのですから、うそ偽りは、すぐに見抜けてしまうのです。本当のもの、本物ではないものは、私たちはすぐに却下できるのです。

たとえば、テレビゲームは本物ではありません。それをやり続けたところで、本当に幸せにはならないことは、私たちは実はよく知っているのではないでしょうか?あるいは、うそっぽいことをいっている、はずれていることを主張していることはすぐにわかります。

ただ、私たちを悩ますもの、陥れるものは、本物っぽく見せかけている偽物です。
これが、私たちの最大の敵といってもいいでしょう。
その典型的なもののひとつが、自分なのです。

私たちは、自分が何の価値もないし、何の役にも立たないことを完全に知らなければいけません。これが、最も厳しい試練の内の一つです。
今まで頼りにしていた自分というものが、何の役にも立たないどころか、足をひっぱっていただけ、ということを完全に知ること。聖なる理解を得なければいけないことが、わかっています。

この直接理解、聖なる理解は、いきなりやってくるかもしれません。
しかしながら、大抵は、一歩一歩経験を積んでいくことになります。

これは、どれだけ口をすっぱくして言おうが、指摘しようが、本人の段階次第なのです。
答えが明示されていても、本人の準備ができていないのなら、聞き逃します。
よって、つまるところは、私たち一人ひとりが、いかに道にコミットし、一段一段あがれるかどうかなのです。

私たちは、間違ったエゴによって装飾された華やかなものを求める必要はありません。
ただ、誠実に謙虚に一歩ずつ偽りを偽りと見ていく作業をしていきましょう。

最初は、全然進んでいる気がしません。むしろ、後退しかしていない気にさせられます。
しかしながら、何年かすると、大いに進んでいることが直ちにわかります。
このように進んでいくのです。

【レベル】:クリアクラス~ユニティクラス