☆分離の幻想

学校のテストなどで、90点や100点を取れば、誰でも喜びます。
それはそれで、大変結構なことです。

けれども、なぜ100点が素晴らしいのかについて、そこで立ち止まれる人はまずいません。
そこで、0点があることに対して感謝する人は、まずもっていません。

逆に、0点を取ってしまった場合は、どうでしょうか?
恥ずかしくて、テスト用紙を裏返したり、見なかったり、丸めて捨ててしまわないでしょうか?
それはまったくもって、正常な生活をしている普通の反応です。

けれども、なぜ0点が恥ずかしいのかについて、立ち止まれる人はまずいません。
0点の価値は、100点の人がいるから成り立つ事に気付こうとする人はまずいません。

点数をとったら、次に行うのは、他人との比較です。
ここで初めて、お互いが違う点数だから、自分が味わえることがあることに気付かなければいけないのですが、私達は全員、ここで間違えるのです。

間違えるのは、他人を羨み、嫉妬するか、あるいは見下し始めるのです。
私達はこういう風にして、静かな絶望の人生を歩み始めなければいけないのです。

本来であれば、お互いの状態があるから自分が何なのかを知れることで、相手に感謝するところが、自分が何なのか以上に、相手が何なのかを重要視してしまう生き方が土台となってしまっているのです。

このようにして、私達はバラバラであることが祝福ではなく、怖れとなる基礎を固めていくのです。

こういうわけで、次のテストの時には、恐れしかありません。
自分は、何点だろう?
こういう風に、小さい頃から自分にプレッシャーをかけ続けて生きているのです。

こうなるともう、相手の存在に感謝するという気付きのかけらもありません。
私達は、こんな風にして人生を事実、生きているのです。

☆自分が何者かを決める聖なるプロセス

私達全員が同じ顔であるなら、違う顔ということすら思い浮かびません。
私達全員が同じ性であるなら、違う性ということすら思い浮かびません。

違うものがあるから、自分が何者であるかがわかるのです。
猫や犬がいるから、私は人間である事がわかるのです。
私は、ハエではない、蝶ではない、山でもない。

こういう風にしていくと、自分を支えてくれる全ての存在に強烈な感謝の念が湧き起こるかもしれません。もしそれを感じることができるなら、爆発はもう間近です。

違うものが現れてくれているからこそ、自分が何者か、何者なのかを決められる。
これは、とてつもなく偉大な気付きです。
これを決して、頭だけの理解にしてはいけません。

文章だけ読んでわかったと思うのなら、重要なものを掴み損ねています。

そして、その気付きにいたっても尚、私達は、相対性をすっかり忘れて、日常を生きていくのです。

ですので、これを読んだ皆さんには、ぜひとも日常の中で、実践してみて欲しいと思います。
意識的に実践することで、これがいかに難しいかがわかるはずです。
これが、いわゆる自分が何者かを決めていくプロセスです。

この相対性の理解は、今後も何回か取り上げていくはずです。
これは、それぐらい重要な理解なのです。
なぜなら、これを理解する事は、エゴを理解する事に他ならないからです。