音大の彼との出会いの後、私はいつもの日常の生活に戻っていきました。

やられたらやり返さない。
やられても仕返しをしない。
なぜなら、それは価値がないことだから。

彼は身をもって、私に教えてくれました。
しかしながら、日常のいつもの生活に戻れば、ムカつくことがあれば、言い返したり、やり返したり。といった具合に生きていました。

けれども、私は彼の姿に何かの光を見出したのです。
その在り方は、非常に素晴らしくそうなる必要があることは、もうわかっていました。受け入れていたのです。

受け入れたことで、私の中により進歩的な基準が出来上がり、やり返したとしても、その基準のおかげで、違和感を段々と感じるようになっていきました。

やり返したとしても、何にもならない。
お手本を見たことで、私は自分自身の幼い態度をより実感するようになっていきました。
そして、いつしか、仕返しをしない。という在り方が根付いていたのです。

☆無限ループ

やられたら、やり返してやる。
傷ついたら、相手に同じだけ、あるいはそれ以上に傷つかせてやる。

といったことをしても、結果はどうでしょう。

当たり前ですが、相手に仕返しをすれば、その相手は更なる仕返しをするのです。
それは、延々とループが拡大していくだけです。
自分の身をエネルギーを文字通り、すり減らすだけなのです。
最終的には、相手を殺すか、自分が殺されるかになるだけでしょう。
どちらにしても、望ましい結果ではありません。

それはそこらじゅうで行われているので、すぐにでも観察できます。

☆ドラマのワンシーン

アメリカのTVドラマシリーズのワンシーンで、こんなやり取りがあるのです。
それは、このことを端的に語っています。

マイケル:「おい、お前、誰に殴られたんだよ。カイルの仲間か?
そうか、じゃあ仕返ししてやろーぜ。」

マックス:「やめろ、マイケル。やめるんだ」

マイケル:「なんでだよ!?やられっぱなしでいいのかよ!?」

マックス:「仕返しなんかしてもしょうがない。もし仕返しをすれば、奴らは俺達に更に仕返しをしてくるだろう。そうすれば、また俺達は仕返しをする。そうすれば、どんどん騒ぎが大きくなる。いつかは、町全体を巻き込むことになるかもしれないんだぞ!?
そんなことになれば、保安官が出てきて、俺達の正体が疑われてしまうじゃないか」

確か、こんな感じのやり取りでした。
彼らはドラマの設定上、人間社会の中で生きている宇宙人でした。
マックスが女性を巡るトラブルに巻き込まれた時のワンシーンがこの会話でした。

単なるワンシーンですが、私達がよく検討しなければいけないこと、つまり、やられたらやり返すことがどういうことかを端的に教えてくれているいい例です。

ただ残念ながら、これだけいい教材に出会っても、私達は明後日を向いてしまっているということが現状です。

こんなにも明確に語ってくれている事に、なぜ気がつかないのか?
それ以上に、こんな簡単な事がなぜわからないのか?

それには、いくつかの理由があります。

☆なぜ気付けないのか?

問題は、なぜこんなことがずっと行われているのか?ということです。

私も、お手本と出逢うまで、全くわかりませんでした。
ですので、残念ながら、これは一人一人の脚本によるのです。
それが脚本に書いてなければ、ずっと素通りして生きていくことになります。

誰が何を言おうとダメです。
なぜなら、それが脚本に書いてないのですから。

また、他の理由としては、成功体験があげられます。
相手を言いくるめてやった、相手を倒してやった。相手を傷つかせてやった。
ということが上手くいくと、刹那的な気分のよさを味わうからです。
やられたらやり返す、というのは、中毒を持っているのです。

「どうだ、思い知ったかバカヤロウ」

こんな感じでしょうか。
優越感と劣等感という中毒に支配されていて、そこから抜け出せないのです。

そして、やられたらやり返すという行為を行った場合、当人にどういう結果が待っているでしょうか?
もしやりこめることが出来たのなら、上記にあげたような優越感に一時的に浸れます。しかしながら、すぐに相手がやり返してくるのでは?と怖れを抱えることになるのです。人生は、優越感から防御態勢という方向にシフトします。

一方、もし負けたなら、当人はとてつもなく傷つくのです。
悔しさ、恨み、自己卑下などの粗野な在り方に支配されます。
結局、相手に対しての恨みにしかつながらず、それを悶々と抱えて生きていく事になります。

そういう積み重ねが、犠牲者意識につながり、常に誰かや何かが悪いんだと決め付けるようになっていってしまいます。
この在り方の根付き方が、進歩の段階を大きく左右するのです。

また、自分が傷ついたことは、相手に絶対にわからせないといけない。
損得という信念に揺さぶられて生きていくのです。

”自分だけ”が損をする事は、許せないのです。
相手にも損をさせないと、同じ気分を味あわせてやらないと、気が済まないのです。

ここに決定的な二つの間違いがあります。

一つは、同じ気分を味あわせてやる。というのは、典型的なエゴの乱用だからです。
私達は、全体です。個別に見えても、実は全体です。
なので、エゴは”同じ”にしたいのです。

この全体の感覚を、エゴは間違って捉えているので、「同じ目にあわせてやる」
と勘違いして行動するのです。

もう一つは、”自分だけ”という感覚です。エゴは、自分が生きていると思い込んでいるので、こういう感覚が根強くなるのです。
エゴは、「俺だけ、僕だけ、あたしだけ」といいます。
その時、エゴはその自分が、本当に存在しているのかを疑問に思えません。

何度も言いますが、いるように見えて、実在していないのです。
どこに、「私」が存在しているのでしょう。空想の中だけです。想像の中だけです。
体の中のどこに私がいるのでしょうか?
脳のどこに私がいるのでしょうか?

以上のように、やられたらやり返す、というのは、エゴの誤解による産物の塊のような物です。

けれども、エゴはそれを望んでいます。
そのドラマは、ずっと続けられるからです。
そのドラマは、間違いなく中毒性を持っているので、繰り返ししたくなるのです。

(つづく…)