音大の彼は、何かが違っているように感じました。
そしてそれは、私に準備が整っている事、進歩への飛躍を遂げる準備が出来ていることを示していたのです。

いいでしょうか。
人間の進歩は、常にこのように進みます。
私が経験し、知る限り。

準備が整うと、教師が現れるのです。
どのタイミングで教師が現れるのかは、私達にはわかりません。
そして、その教師が人間ではないこともしょっちゅうあります。

また、学校で出会う教師が本当の教師だという事は、滅多にありません。
もちろん、”生活していく為の”教師には出会う事は簡単に出来ます。
この外側の世界の知識を教えてくれる教師は、星の数ほど沢山います。

けれども、進歩の道筋を教えてくれる教師は、学校にはまずいないでしょう。
それらは、道端で出会ったり、何かの拍子に現れたり、といったように、それは、突然現れるのです。

そして、その方が教師だとは、その時点では本人は気付きません。
ずっとずっと後になって、わかるのです。
あるいは、気付く事も出来ないかもしれません。
しかし、その恩寵は、気付いてもらおうとしません。
見返りなく、感謝される必要なく、行われるのです。
なぜ、そうなのでしょうか?
なぜなら、それが私達の本性だからです。
私達の本性の働きを、現しているのです。

因みに、生活していく為の教師と進歩の道筋を教えてくれる教師の違いは簡単に見分けがつきます。
まず、普通の教師は、取引をするからです。
これをくれれば、教えてあげる。という具合です。
いくら払えば、教えてあげる。という風に。
また、はっきりと「これを私があなたに授ければ、あなたはどんなに素晴らしい人間になれるか」ということを明確に語ります。
ですので、違いを見分けるのは、非常に簡単です。

ただ、だからといって、普通の教師を軽んじているのではありません。
このような方がいないと、この幻想の劇は成り立ちませんし、
このような方は、その時点で適切な役割を担っているのですから。
そうでなければ、現れる事はできません。

この例で言えば、私も彼が教師だとは、その時点で全くわかりませんでしたし、
彼に”ありがとう”と伝える事もなかったのです。

ずっとずっと後になって、彼が私に示してくれた事がわかったのです。

ですから、「全てのものに、感謝しなさい」と言われるのです。
なぜなら、私達は、わからないのです。
何が起こっていて、それがどんな意味を持つのかは、その瞬間にはわからないのです。
間違ったエゴである為に、間違ったエゴとしての観点でしか、物事を見れないからです。
その瞬間を拡大した現実の中で理解する事は、ほぼ全ての人間にはできません。
ゆえに、何かが起こったのであれば、良い事であれ、悪い事であれ、感謝した方が賢明だというのです。(しかし、もっといえば、感謝は思ってすることではありませんが)

☆期間に左右されない人間関係

さて、音大の彼に話を戻すと、釈然としないまま、ランチが終わり、午後の仕事に入りました。仕事中は忙しすぎて、ちょっとした雑談をする暇もなく、あっという間に終業時間になってしまいました。

帰る際、音大の彼を探したのですが、もうどこにも見当たりません。
仕方ないので、もう一人の彼と話しながら帰りました。

そのアルバイトは短期というか、その日だけのものでしたので、結局、彼らとは二度と会う事はありませんでした。

この経験から、もう一つ言える事は、人間関係においては、期間は関係ない。
ということです。
私は、音大の彼と言ってみれば、半日程度の付き合いしかしなかったわけです。
しかしながら、彼と過ごした数時間は、とてつもなく濃かったのです。

何年友達でいようと、私はその友達のことを全く覚えていません。
その友達と何をしたか?ということに関して、朝まで飲んだとか、バカ騒ぎをしたとか、非常に抽象的で、”こんな感じ”だったな、ぐらいしかわかりません。
非常に面白いのは、接したのはたった数時間だけれども、音大の彼のインパクトはとてつもないものがありました。

たった数時間の出会いが、この文章を書かせているのです。


(つづく…)