ホワイトクラス第4回は、耐えることについてになります。

タイトルにある、”やられてもやりかえさない”という態度は、私が観察した所によると、人間の進歩を現す上で、非常に重大な分岐点になります。

以前、お話した人間の進歩段階でD段階というものがありました。
D段階は、頂点であるS段階~D段階までの範疇で、一番下の段階にあたります。
それでもD段階の方は、やられてもやり返さない段階にいる方々です。

そういう観点から見ると、やられたらやり返すという在り方は、D段階よりもっともっと下の段階なのです。
そして、おわかりのように、世界はそういう段階で進行している、ということです。
世界で争いが起こっているのは、やられてもやり返さない、といった初歩的な在り方すら想像も出来ず、実践も出来ない故に起こっているのです。
これは、私にとって、本当にびっくりすることです。

やられたらやり返す、というのは、進歩の段階でまだ、非常に幼稚なところにいるのです。

☆錯覚

私が経験したところによると、スピリチュアルなことに興味を持っていても、やられたらやり返す、自分が傷ついたら相手に同じ事をしてやる、といった人に何人も出会いました。

当初、私はスピリチュアルなことに目覚め始めたら、このような幼稚な在り方はしないものだと思っていました。
しかし、まさしくそれは、単なる思い込みでしかなかったのです。

なぜこんな思い違いをしたかといえば、スピリチュアルの”分野”は、本当の自分というものを含んでいるからです。
ハイアーセルフや真我など、様々な名称がそこにつけられていますが、そういう概念を含んでいるからこそ、スピリチュアルに目覚める事は、自分に目覚めることなんだと、思っていたのです。

しかし、それはとんでもない思い違いだったのです。
経験して分かった事は、多くの人は、スピリチュアルに興味をもちながら、明後日の方向を向いていました。これは、本当にびっくりしました。

この経験から、スピリチュアルに興味があるからといって、進歩しているとは限らないことを知りました。これは、重要な理解です。

スピリチュアルに目覚める事と、自分自身に目覚める事は違うのです。

大抵の方は、前者であって、後者ではないのです。

私が言える事は、自分自身に目覚める事が何より優先事項であって、スピリチュアルに目覚める事は、例えばサッカーに目覚める事と何の違いもありません。

ただ、スピリチュアルの目覚めを通して、自分に目覚める事は、後々あるかもしれませんが、その可能性は非常に低いようです。

なぜなら、スピリチュアルの概念が、逆に理解の邪魔をするようになるからです。
むしろ、何も知らない方がいいのです。

(つづく…)