さて、とんでもなく長いタイトルですが、大切なことはこういうことです。

なので、タイトルを読んでいただければ、それで終わりです。

…。というのも、なんなので。

もう少し、詳細に見ていこうと思います。

まず、

☆生きようとすることも間違っている。ことについてですが、

生きようとする人は、あまりいません。
生きている人はいくらでもいますが、生きようとする人は、私もあまり出会ったことがありません。

ですので、生きようとする人というのは、地球というこの世界の平均的なレベルよりも高い方たちです。

ですが、生きようとすることは、間違っているのです。

なぜなら、そこには自分が選択によって、この人生をコントロールできる、という間違った信念に支配されているからです。
それは、完全に錯覚で単なるエゴのうぬぼれです。

☆生かされている(活かされている)ことも間違っている。
生きて生きて、生きようという意志が臨界点に達すると、次には、この生かされている(活かされている)という精霊の理解がやってきたりします。

そこで初めて、自分が何者かに生かされている、だからあらゆるものに感謝しなければいけない。自分の人生にも感謝する。

という非常に高いレベルに至ります。

このレベルで生きる人は、本当にマレです。
生きようとする人たちの中でも、このレベルに到達する人はほとんどいません。

ですので、地球の平均的なレベルからはるかに進歩しています。

こういう方々は、言ってみれば世界のお手本です。
あるべき世界の在り方をいつも教えてくれるのは、こういう方々です。

なぜなら、自分が活かされている、ということでより高きもの、神、実在の重要さを伝え、私たちが思い上がり、うぬぼれてしまっていることで忘れてしまったものを教えてくれているからです。

しかしながら、この状態もまた、本物ではありません。

なぜなら、活かされていることと自分に間があるからです。

まだまだ人生の主体、コントロールの所有権が自分にあることがわかります。
プレイヤーとしての自分があり過ぎるのです。

大いなるものに心を開いている状態ではありますが、まだ自分に固執しているのがこの段階です。

この段階は、まだ自分だと思っている自分の汚れがあり過ぎるのです。
そこがほっておかれて、実在への感謝が先に来てしまっているのが、この段階です。

☆生きることが起こっている、も間違っている。
生かされている、という基本姿勢が常態になり、自分だと思っている自分の汚れが綺麗になると、次には、このような状態に至ります。

生かされていること、それに感謝しながら日々を送るマスターたちの中でも、このレベルに至る存在は、どれくらいでしょうか。

生きることが起こっている、という時、そこに初めて、個人の実在性が疑われることが起こります。

なぜなら、生きることが起こっている、というのは、今までそこで機能していた個人である私をそこに発見するからです。

このレベルになると、高いとか低いという事は関係なくなってきます。
進歩とか退歩ということも、関係なくなってきます。
なぜなら、このようなものは、世界の中のみにしかないからです。
幻想の中にしか存在しないものなので、そこからの影響はもうないのです。

つまり、この状態が観照者の出現であり、これが核心に最も近い状態です。

この状態になれば、自分が今まで夢を見てきただけだという事、幻想を生き続けてきただけだという事、そしてそれを現実だと単に信じ込んでいただけだ、ということに気づきます。今までどんな本で仕入れた概念の手助けなく、直接気づくのです。

生きることは常に起こっていて、というより、生きることが在って、そこに独自の意志、外れた意志を持った行為をしている実在の存在などいやしない、ということが直接理解の状態に立たされます。変な日本語ですが、こういうことです。

それは、単に大いなる流れが大騒音で進行しているだけで、同時にそこには何一つ音がない、輝きと共に沈黙があるだけだ、ということを観て、気づくのです。

ただ、この状態も至高の状態ではありません。

なぜなら、まだ観照者がいるからです。
観照者がいる、ということは世界もまだそこにあることを、観照される対象物があることも示しています。

ですので、まだ二つのものがここにあるのです。

誰が、観照者だと言うのでしょうか?
見る者と見られる一切のものの分離は、まだそこにあり、見る事自体が起こっているのです。

☆何も起こっていない、こそ故郷である。
生きる事が起こっている、という状態を超えたものが、最終的にたどり着く、何も起こっていない、という状態です。

私が分かる限り、ここがゴールです。ここが、本当の本当です。

何も起こっていない状態で生きていくことが、目覚めた眠りの状態です。
誰がどう言おうと。
それは、私という感覚なく、生が続いていく事を意味します。

そこには意識も、体も、世界も当然ありません。

そこには、在るだけです。

在る、ということすらわかりません。

そこには、眠りも、夢見も、目覚めも、もうありません。

ギブアップの会は、すべてここに至るためにあります。
私が皆さんにお伝えする最も中心的な核、ゴールはこの状態です。

幸せとは、この状態の事を言います。
平和とは、この状態の事を言います。

対象物があって、それとの関係性がある限り、幸せはありませんし、平和もありません。

では、この状態にたどり着いた方は、どれだけいるのでしょうか?

もしかしたら、幻想に登場した全ての人物を遡ってみても、100人もいないかもしれません。

イエス・キリストは、このような状態に到達していたのでしょうか?
ブッダは、このような状態に到達していたのでしょうか?
聖・ジャーメインは、このような状態に到達していたのでしょうか?
ラムサは、このような状態に到達していたのでしょうか?
ニサルガダッタ・マハラジは、このような状態に到達していたのでしょうか?
ラマナ・マハルシは、このような状態に到達していたのでしょうか?
ドン・ファン・マトゥスは、このような状態に到達していたのでしょうか?
クツミは、このような状態に到達していたのでしょうか?
バーナデッド・ロバーツは、このような状態に達しているのでしょうか?

わかりません。
ただ、彼らの多くは、共通してこの目覚めた眠りについて言及しています。

今後、この目覚めた眠りについて、いろんな人が話題にするでしょう。
なぜなら、ここで私がこうして話しているから。

ただ、この場所は、誰がそれを実現しようと問題にしません。
なぜって、何も起こっていないから。
する必要がない、以上に、そもそも起こっていない場所なのです。

これが、どれだけとてつもないことか!!

私がわかることは、このサイトをよくご覧になったり、このメッセージを最後まで読み切れてしまうような方は、知らなくても、この状態を誰より愛している、ということです。

だから、あなたに読ませる必要があるのです。
必要がなくとも。

そして、それが実現するのです。
その実現の原動力は、知性でも行動力でもなく、愛そのものです。

【レベル】:ホワイトクラス~ユニティクラス