私たちが普段、日常生活をしていると、
「時代が変わったから」
とか
「もうそういう時代じゃないから」
といったフレーズを聞いたり、読んだりすることが多々あるのではないでしょうか。
「もうそういう時代は終わった」
「時代に合わせた生き方をしなければいけない」
とか、この時代云々に関しては、ありとあらゆるヴァージョンがあって、どんなシチュエーションでも使うフレーズのようです。
で、これですが。
結論から言えば、実現した存在はもちろんこのこと、実現していく存在もこういう表現はしません。コミュニケーションしているとき、こういうことは、まず言わないのです。
もちろん、こういう”物”言いをしなければいけないシチュエーションはあります。ですので、その時は、あえてそういうことを言います。
実現した存在に関して言えば、その時に起こっていることは、自分が何を言っているか、そしてなぜそれを言っているのか?そして、それを言う事で、どういう展開になるかが見えているがゆえに、あえてそう言うのです。
つまり、言っている事をただ観ているだけなのです。
ですので、眠ったまま、こういうことは言わないのです。
そして、これから実現していくであろう存在も、こういうことは決して言いません。実現していく存在、やがて目覚めを迎えていく存在は、当然目覚めていませんので、上述したように、それを観てはいません。
そこで起こる事は、他人とコミュニケーションをとっている時やどこかでこういうフレーズを読んだり、フレーズを聞くと、無性に虫唾がわいたり、イライラしたりします。
決して、共感はしません。
これは、さして珍しい状態でもありませんので、皆さんにとっても馴染み深いかもしれません。
ここで問われるのは、ではなぜ、実現する存在は、そういうことを言わないのか?あるいは、そういうことを聞くと嫌な気分になるのか?ということです。
時代というのは、その集合意識の中で合意された意識の流れです。
ですので、時代に合わせて、だとか、時代が変わったから、と言う時に、それが何を意味しているのか?といえば、暗にそれは、時代と自分は関係ないものだ、と結論付けているからです。
時代があって、自分がある。
狂っています。
誰もそうは気づかないようですが、実際、これは狂人の理解です。
時代というのは、向こう側にあるわけではありません。
でも、
「こういう時代になっちゃったから」とか
「時代にあった生き方を選ぼう」とか
「時代が時代なので」
というようなことを言うとき、まさしく時代と自分は、全くの無関係なもので、いつも、自分は時代の犠牲者、被害者になっている、という暗黙の前提があるのです。誰も、このことに気づきませんが。
自分はただ、時代に振り回されて生きているだけの人間だ。
というのが、このフレーズの奥にしまわれている信念、設定です。
つまり、これはいかに自分が被害者ですなわち、無力な存在か、という宣言に他なりません。それは、弱さを表すシンボルだからです。
こうしたバックボーンにある信念があるからこそ、実現に向けて歩んでいる者(実際は誰もがそこに向けて歩んでいるのですが)は、無意識にでも無性に腹が立つのです。
私自身の例をあげれば、高校の時にはもう、こういう言葉を聞くことが大嫌いでした。
こういうことを聞いたり、読んだりすると
「こいつ、生きてねーな」と思っていました。
その当時は、なぜムカつくのか、全然わかっていませんでした。
わかっているのは、「生きる事を知らねーから、こういうことを言うんだ」、ぐらいの理解でした。
ですが、今ならよくわかるのです。
それは、もっともな反応だったわけです。
これはもちろん、高校生だった私がそういう言葉を聞くのが嫌だったから、実現する人は、そういうことは言わない、というような自分勝手な話ではありません。
なぜなら、すでに答えはもう出ていて、あなたも読んでおわかりになっているとは思いますが、つまり、人生の被害者、犠牲者になっている存在が、どうして実現できようか、ということだからです。
実現する者は、強くなければなりません。
それも、単なる強さではなく、比類なき強さが求められます。
そうであるなら、弱者がなぜ、実現できるのか?
ということになるからです。
それは、到底無理な話です。
ですので、実現間近にいる者は、こういうフレーズを聞くと、弱さを垣間見ることになるため、それを絶対的に拒絶したくなるのです。
ですから、無性に嫌な気分になるわけです。
もうおわかりのとおり、
「時代が時代だから」とか
「時代にあった生き方をしよう」とか
いうことを言うのは、無責任だからそう言えるのです。
時代と自分が関係ないと思っていないと、こうは言えません。
関係ないと思っている人だけが、無責任になれるのです。
けれど、実現する者が歩む道は、全てにおいて責任をとっていくことになります。
そうなるとつまり、これは全く正反対の在り方になるわけです。
だからこそ、実現する者は、こういう物言いはしないのです。
彼ら実現する者、実現がかなり間近に迫っている者の特徴は、時代と自分に関して、未だ分離を見ているかもしれません。
しかしながら、ここでのポイントは、だからといって時代のせいにはしないし、時代に振り回されもしない強さを持っている、ということです。
自分の生き方に時代は関係ない、とさえ思っていることもあります。
つまり、弱者としての関係のなさではなく、時代がどうあろうと自分の信念を優先させる強さを示しているからです。
これが、初期に求められる強さであります。
(この強さは、レベルが上がるに従い、木っ端微塵にさせられるのですが)
こういう信念の強さが、実現を加速させていくのです。
こういったわけで、実現していく者は、
「時代が時代だから」
「こういう時代だからこそ」
というようなことは、言わないわけです。
私は実際に話した事はありませんが、たとえば、ニサルガダッタ・マハラジや、イエス・キリスト、ラマナ・マハルシ、仏陀といったような者たちが
「いや、君、もうそういう時代じゃないんだよ」とか
「いや、時代が時代だからさ」とか
「こういう時代になっちゃってねー」
とか言っていたとお思いでしょうか?
彼らは、日常でこういうコミュニケーションをとっていたのでしょうか?
皆さんはどうかわかりませんが、私には、到底そうは思えないのです。
彼らが時代に言及する時は、もっと高くそして深いところで話していたはずです。叡智として、彼らは時代に言及するのです。
それは、全く持ってレベルが違う所で話すわけです。
もちろん、こういうフレーズを使うのは、社会で当たり前のように使われているわけで、そうであれば、ごくごく”普通”の生き方です。
しかし残念ながら、目覚め、覚醒し、自由を遂げる者は、いわゆるごく普通であっては、達成できないのです。形的には彼らと同じような日常を送りながら、それでも完全に常軌を逸した生き方を選ばなければなりません。いえ、実際には、選ぶ事が起こってしまいます。
家の中の窓から外を眺め、それで満足するか、その窓の外に何が待っているのかわからないながらも、果敢にも飛び出して本来の宝物を取り戻す旅に出る者だけが、実現するのです。
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