それは、非常に自由な感じがします。
言ってみれば、それは一種の救済です。
やっと仕事が終わった、解放された。
さあ、これから好きなことができるぞ!
(といっても、やれることはいつも限られていて、ほとんど変化らしい変化を起こせないで終わるわけですが)
という、あの感覚です。
その救済とは、仕事が終わり、家に帰るまでの間と、家に帰ってから、ほっとしてお風呂に入ってリラックスしたり、くつろいだりできるほんの数時間、ということになります。
なぜなら、もう明日の朝には、目を覚まして仕事に行かなくてはいけないのですから!
その時点で、もうプレッシャーを感じはじめています。
そういうわけで、その救済は長くは続かず、次の日の朝、また仕事にいかなくてはいけなくなります。その麻薬の効き目が終わりを迎えたとき、またあの苦しみと向き合っていかなくてはならないわけです。
苦痛や苦悩の源泉ともなりうる職場にいかなければならないわけです。
そして、苦痛や苦悩が終わるのは定時を迎える瞬間であり、運が悪いと、いや、たいていは運が悪いのですが、残業がようやく終わりを迎えたとき、私達は、またもや解放された、自由になったという、ささやかな幸福感を得るのです。
つまり、ここで何が行われているかと言えば、苦痛の終わりが快楽の始まりになっていて、快楽の終わりが、苦痛の始まりになっている、と言う風に、延々と同じプロセスだけを繰り返しているのです。
まさしく、地獄は繰り返す。これをあからさまにやっているわけです。
しかしながら、もう少し見てみると、今や苦痛を助けてくれる解放感を求めるあまり、
手段が目的化してしまった、ということです。
その解放感、幸福感を求めるがゆえに、あえて苦痛なものを自らに招き入れ、そして、最終的に、「救われた」という劇を演じている、ということです。
そう、何が本当の目的かがすりかわってしまい、それを忘れてしまったのです。
これこそが、いわゆる中毒なのです。
私達は、まさしく中毒患者なのです。
ですので、そのばかばかしい構図に、何となく気づいた人は、そこから逃れようとしますが、世界全体がこの構図で成り立っているため、いつも負けるのです。
周りのほとんどが、中毒から抜けているなら、救いの道はありますが、
全員、ゾンビだったら、どうやってそこから抜け出ればいいのでしょうか?
どの病院に行けばいいのでしょうか?診てくれる人が、中毒患者そのものなら、どこに希望があるのでしょうか?
おかしい、と主張しても、いつもコテンパンにやられる理由は、ここにあるのです。
そういうわけで、途方もなく私達は厳しい道のりを歩んでいるわけです。
私達が、どのようにして中毒にはまっているか、その構図、パターンに、あなたは気づいていましたか?
この世界の中自体には、ほんとうの救済となりうるものは、ありません。
私がわかった限りで言えば、ありません。
何一つ、あなたを本当に助けてくれるようなものはないのです。
このことを、言葉を超えてわかる時が来ます。
私自身、このようなことは、本でいくらでも読みました。
そう、その時点では、それは私にとっての一つの概念でしかありませんでした。
しかしながら、後々、私に起こったことと言えば、言葉を超えた理解でした。
そう、それは実在の中で知ったのです。
神の中で、それを知ったのです。
決して、本の中で、セミナーやワークショップの中で、ではありません。
瞑想中でもなければ、座禅中でもありません。
それは、そういうものではないのです。
【レベル】:クリアクラス~ユニティクラス