それが、この事件でした。

タカギさんからこの話を聞いたとき、「あぁ」となりました。

本当に、崩れ落ちそうになりました。
タカギさんは、笑って話していたんですが。

その部長は、「俺のケーキ」に完全に執着していたのです。

「俺の、俺の、俺の」です。

たかがケーキ、などではなくて、”俺の、俺の、俺の”が問題なのです。

彼は、自分のものにできる物なんて何一つないことに気づいていなかったのです。

自分の物なんて、何一つない。
ということに気づくことは、進歩した存在であれば、絶対に気づいているはずなのです。
私にしてみれば、これは本当に初歩的な場所だったのです。

気づいているからこそ、それを知っているわけで、気づいて知っているから、すでにそれを生きている状態になっているはずなのです。

仏陀やイエスが自分の持ち物に固執していたのでしょうか?
ニサルガダッタやマハルシは、自分の持ち物に固執していたのでしょうか?

「俺のりんごがなくなったぞ!」

と彼らは、叫びまわる人だったのでしょうか?

私には、どうしてもそうだとは思えませんでした。

「こんな初歩的なことすら気づけない部長は、一体、何なんだ?」

私の思いこみは、完全に崩れ去ってしまいました。

そして、「やっぱり、そうだったんだ。ずっと怪しいと思っていたけど、勉強ができることやお金持ちであることや、社長や取締役といったものと、その存在の成熟さ、進歩といったものは、全然関係がないんだ」

ということが、はっきりとわかったのです。

事実、この部長は、

「俺のもの、俺の」

と騒ぎ立てることが、一体何を引き起こすのかについての理解がまったくなかったのです。

だから、その職場を追いやられてしまった、ということが全く分かっていないのです。

世界の問題のほとんどは、「自分が思っている自分」と「自分の物」という錯覚なのです。

これが消え去ってしまえれば、世界の問題のほとんどは解決するのです。

この「俺のケーキを食いやがった」事件を通した向こう側には、悲劇しか待っていませんでした。

その先には、何もありませんでした。

タカギさんも、その同僚も何も気にしていません。

「あのくそ部長がいなくなって、せいせいするぜ」

という場所にしか落ち着いていないのです。

「俺の…」がこのような騒々しい問題を創り出す元凶だという事に、まったく気づいていなかったのです。

これは、私にとって、本当に驚くべきことでした。

そういった意味で、この事件に登場した方々は、私にとっての大切な教師でした。

なぜなら、教えてくれたから。

楽しくもない、はっきり言えば不快な話しですが、しかしながら、その事件は、私に大切な事を教えてくれたのです。

ですので、誰が教師か、誰が本当のグルなのか?、誰がマスターなのか?ということは、間違ったエゴにはわからないのです。

誰が神から送られてきたプレゼントなのか?

そこには、途方もない筋書きが用意されていたりするのです。

だからこそ、私たちは少なくとも心を開いて生きていかないといけない、と言われるのです。

聖なる本やワークショップは、確かに素晴らしいものです。

ですが、私たちがそれに接するときには、すでに期待があるのです。
真っ白な状態ではないのです。すでに用意してしまっているわけです。

だから、何を読んでも、何に参加しても、驚異的な気づきや驚異的な飛躍には、あまり繋がらないのです。

本当に大切な事は、いつも準備していないで生きていくことです。
何も探そうとせず、何も求めようとせず、何も欲しがろうとしないとき、それはやってくるのです。

この事件は、ある時、ある場所で起こったささいな事件ですが、それでもこれだけのことを教えてくれるわけです。

こういったわけで、皆さんには、自分にとっての最悪な事件こそ、実は最大の教師ではないか?最悪な人、避けたかった人ほど、大切な事を教えてくれている人なのではないか?

それをもう一度、おさらいしてみて欲しいと思います。

(おわり)

【レベル】:ホワイトクラス~クリアクラス