一つの例としては、視力が回復する、ということです。
これについては、既にテキストに挙げた通りです。
・いのちを感じ始める
それまでは、いのちを見ていませんでした。
ただ、概念だけを見ていました。
ただ、ものだけを見ていました。
ただ、肉の目だけを通して見ていました。
けれども、目覚めが起こり、神を思い出し、神の愛に触れることによって、再び心に光が灯され、目の曇りが落ちて、見えるようになるわけです。
このような状態の生活の中では、目に映る全てが、なぜかキラキラと輝いて見えるようになるのです。そんな状態ですから、その景色にも当然、人は映し出されていて、どんな人もまた、なぜか輝いて見えます。
こういう状態のままの生活が毎日ずっと続く事になります。
私の場合は、それが二年ほど続いたのではないかと思います。
また、興味深かったことの一つは、目覚めた後、それまで抱えていた体調不良のいくつかは、綺麗さっぱりと消え去ってしまっていた。
ということでした。
小さい頃から、重度のアレルギー性鼻炎に悩まされていましたが、その症状は消えてなくなっていました。
ただ、メガネをかけなくてもいいといったような視力の回復は起こりませんでしたが、「あれ?ない」という事になります。「あれ?治っている」というより、あれ?ない、という感覚です。
これは、治るべき病など実はない、ということを意味しています。
本来、病などはないので、あれ?ない、ということが本来的な、神の状態なのですね。
こうしてみれば、私たちは、治るべき病という対象に目を向けるのではなくて、病などない、という神なる状態に目を向けなければいけない、ということがわかるかと思います。
このことについては、もっと後のクラス、ユニティクラスにおいて扱う理解ですので、ここまでにしておきますが、この一件は、つまりもっと進むために、私に起こった一件でした。
そうすると、やはり良く出来ているのです。
見事なまでに、よくデザインされているのです。
そして、このことはつまり、私が特別そうなっているのではなく、あなたもまた、そうだ、ということなのです。
ただし、未だ思い出せていないと、目覚めていなければ、このことは単なる概念としてしか、理解されません。
だからこそ、思い出すこと、目覚める事がいの一番に来なければいけません。
こういう理由で、ギブアップの会ではまず、このことを一番最初に扱い、ワークしています。