さて。

目覚めが起こると、思い出す事が起こると、愛されているということにじかに触れると、さらに心が軽くなることが起こってきます。

これは、何も珍しい事でも何でもありません。

たとえば、好きな人が出来たとき、心がやけに軽くなったことは、誰にでもあるはずです。

好きな人ができ、お互いに愛しあっているとき、心は軽くなっているはずです。

目覚めもこれと同じ事が起こるだけの話です。

ただ、恋愛関係の時と違うのは、恋愛関係において、心が軽くなるのは、一時的な”もの”に過ぎないのに対し、目覚めにおいてのそれは、恒久的である、という点です。

とはいえ、恋愛関係において、ずっと心が軽く感じられる人がいるかもしれません。これは、あくまで私の経験上、そう言える、ということです。
残念ながら、私の経験では、恋愛関係の上で心が軽く感じられたのは、最初の時期だけでした。どんな女性とも、残念ながら、そうでした。

最初の時期だけ、すごく胸がときめくわけですが、それが何年もの付き合いになると、どーでもよくなるわけです。あくまで、私の経験からですと。
もしかしたら、何年経っても、最初のときめきは続きっぱなしだぜ!という人もいるかもしれません。そうでしたら、えー、ゴメンナサイ。

それに対して、目覚めると、私もまた神であることを思い出し、愛されているという感覚につながると、心が鬼のように軽くなります。

そして、その感覚は、たぶん今まで経験してきたどんな感覚とも比較できないことを知るはずです。なぜなら、途方もない安心感を感じるからです。たぶん、恋愛でのそれは、そのような安心感を感じないはずです。それは、本当に言葉で表現出来ないほどの安心感です。

そして、この感覚はあまりに愛で、つまり無条件で無制限であるがゆえに、自分自身の心のリミットを振り切ってしまう事になります。その結果、強烈に揚げられることになり、気づくと、圧倒的なまでの心の軽さを感じるのです。

ある意味、それまでの自分だと思っている自分、間違ったエゴをふりきり、本来の軽さを思い出してしまっているのです。

そして、ポイントになるのが、以降、この軽さが自分自身にとってのデフォルトになる、ということです。
恋愛関係での一時的なものとは、ここが違うことになります。

つまり、ナシでそのままでいれる、ということです。

軽いとは、英語でlightだと思います。
明るいとは、英語でlightだと思います。
つまり、軽い(light)とは、明るい、光(light)である、ということです。
心が軽くなるとは、心が明るくなる事、あなたが光ることを意味するのです。
(このことは、既に何度もテキストで確認してきました。)

素敵な恋愛をしている時、よく人は輝いて見える のは、そういうことなのです。

ここで少し言及すれば、たとえば女性がそういう状態に憧れて、素敵な男性を見つけて、そうすれば自分も幸せになれる、と思うようですが、そうした時、何が起こっているかと言えば、自分の幸せは、条件にあう男性にかかっている、ということを意味しています。

自分の幸せは、外側にいる男性、それも条件に見合うだけの男性に出会えば、私もあの人のように輝くことができる、と。
そう言っているのですね。

だから、永久に幸せはやってこないのです。
なぜなら、外側に原因があると思っているからです。

これは、こうしてわかりやすく言われれば、なるほどと思うのですが、なにせ間違ったエゴですので、すぐに忘れて、自分自身がいつの間にか、その方程式にのっとって生きてしまうことになります。
間違ったエゴの策略は、本当に良くできています。

さて。
少し脱線しましたが、目覚めると、このように心が非常に軽くなり、それは一時的なものではなく、それが自分自身にとっての当たり前の状態になります。

この状態が続いていくと、周りにいる人たちは、何気なく気づくようになります。敏感な人であれば、「なんだかあなたの周りは、キラキラとしている感じがするんだけど、なんで?」と訊ねてくるようになります。
あるいは、「なんだかわからないけど、そばにいるとやけに安心する」というようになります。

たぶん、これがかぐや姫で言われていた、光が輝いている様ということのだと思います。また、仏像の周りにあるオーラのような光の輪も、同様でしょう。

これが、目覚める事によって、神の愛に触れる事、そして私もまた神であることを知る事によって、起こる心の軽やかさです。

これが、あなた本来の状態のなのです。
だからこそ、私は皆さんにそれをぜひとも思い出してもらいたいのですね。

ただ、確かに、これは一見素晴らしいように聞こえますが、このレベルに入ってしまうと、もうこの世の全てを捨て去っていくことが決定されてしまいます。
ですので、とんでもないほどの苦しさを日々味わっていくことになります。

そこで助けになるのが、自らの心の軽さなのです。
たぶん、この状態になっていなければ、これから先のあらゆる試練に耐え切れないからなのだと、経験的に思えます。

けれども、それ以上にこの状態に価値があるのは、それだけ心が軽くなると、罪悪感のほとんどが消え去っていくことになるからです。

ギブアップの会以前にも、多くの人に出会ってきましたが、とにかく、罪悪感を抱えている人が非常に多いことに、私は驚きました。

もう少し言えば、罪悪感からある程度自由になっている人のなんと少ないことか!?

問題なのは、本人は、自分が罪悪感を持っていることのおかしさに、微塵も気づいていない、ということなのです。罪悪感があって当たり前、というそれがデフォルトになってしまっていて、そのことに全く気づいていない、ということなのです。

そこで、私がそのことに言及すると、そこではそれを認識するのですが、気づいてはないのです。

それを持ち続けている限り、本当の輝かしさ、栄光はやってきません。

私は、そういう理由で、彼らがなぜそのように罪悪感から自由になり、それを終わらそうとしないのかを、観察し続けてみたところ、共通して、自分自身もまた神である、ということに全く気づいていないことがわかったのです。思い出していませんでした。

彼らは、共通してこの経験を通り抜けていなかったのですね。

だからこそ、目覚める事、思い出す事が一番最初に求められる最も重要なことなのです。

目覚める、神を思い出す、覚醒する、というとなんだかすごいテーマな感じがするのかもしれませんが、これは、基礎的なことで、最初に通過する門です。

ここから先が、いわば本番ともいえます。

ですので、皆さんには、まず自分自身の親は、肉体上の両親ではなく、神である事、そしてそここそがあなた本来の住処であることを、思い出していただきたいのです。

それが起これば、必然的に、心が軽くなり、罪悪感がいつの間にかなくなり(全部ではありません)、ある種の光を纏うことになるのです。

そして、私たちは、ここから本格的なワークをしていくことになります。