さて
今回は、ある方からお便りをいただきましたので、皆さんと共有したいと思います。

では、さっそくその内容を一緒に見ていきましょう。

※GMとは、ギブアップの会で行っているグループミーティングのことです。


前回のGM前後から、断続的に“発作”みたいなのが起こり、

不思議な感覚に襲われるという時期がしばらく続きました。

その発作が起こるときは決まって、異次元へのスイッチが入る感覚があります。

そのあと、「ごめんなさい」という感覚が体の底から絞り出すようにして沸き起こるとともに、この世界が甘やかな空気で満たされるんです。

ちーさんはよく、「間違ったエゴ」という言葉を使いますよね?

GMの最中、なぜ「間違ったエゴ」と呼ぶのかがすとんと落ちる感覚がありました。

目の前にみずぼらしく佇んでいるそいつは、何をどう頑張ったところで、間違うことしかできない。

その姿がありありと見えました。

その直後に沸き起こった、「ごめんなさい」という感覚。

ああ、これを「懺悔」というのだなと初めて知りました。

昨年後半はずっと、まわりの人の醜い部分がどうしようもなく目についてしまい、蔑まずにはいられない!という状態が続いていました。

「こいつら、ほんとにバカじゃないの?」ってずっと思ってました。

それはまさに自分のことなのだと薄々気づいていたのですが、まだ逃げ道を残しておきたかった。

人を批判する代わりに、自分の身だけは安全な場所に置いておきたかったんです。

でも、間違っているのは私なんですよ。

外にあって自分は関係ないと思っていたものは全部内側にあって、本当は外も内もないというか、自分しかいないんですよね。

(ってこれ、理屈では全然わかっていないのですが、なぜかこういう言葉が出てくる)

そういう理解が染みてきたときに、とめどなく湧き上がる他者への批判はイコール全部自分のことで、そこにはただ汚泥にまみれた自分がいるばかり…という事実をますます誤魔化せなくなってしまいました。

いやあ、ほんとにひどいですね〜。

しぶといなー。

醜くてしぶとい。最強です。

以上、抜粋になりますが、このようなお便りをいただきました。

非常にレベルが高く、多くの人にとって役立つ内容ですので、ここで取り上げたいと思います。

早速、順を追ってみていきましょう。

>前回のGM前後から、断続的に“発作”みたいなのが起こり、不思議な感覚に襲われるという時期がしばらく続きました。
>その発作が起こるときは決まって、異次元へのスイッチが入る感覚があります。
>そのあと、「ごめんなさい」という感覚が体の底から絞り出すようにして沸き起こるとともに、この世界が甘やかな空気で満たされるんです。
まず、このような感覚の変化はよく起こることです。
ここで起こっている事の全容は、自分だと思っている自分から私であるものへのシフトが起こっている、ということです。
言い方を変えれば、幻想が幻想として観られ始めている、ということなのです。

また、ここでのポイントは、「ごめんなさい」という感覚がわきおこる、というところです。
しかしなぜ、ごめんなさい、なのでしょうか?
誰が誰に対して謝っているのでしょうか?

そうです。
つまり、ここで彼女が感じているのは、幻想を見始めてしまった自分自身が実在、神に対して罪を感じているからこそ、このように「ごめんなさい」という感覚がとっさに生まれ、それを感じているのです。

さらに、その幻想は決して実在しないもので、既に許されているがゆえに、その後すぐに、「甘やかな空気で世界が満たされる」感覚を続いて感じているのです。つまり、神からの答えが来ているのです。
すなわち、彼女は許されている感覚をじかに感じ、すなわち神をじかに感じている、ということになります。

つまり、自分自身を許す、自分が持っている罪悪感を神に委ねるとどうなるか?
それがここで如実に語られている、というわけです。

ですので、この後続いて、彼女はこのように記しています。


>ちーさんはよく、「間違ったエゴ」という言葉を使いますよね?
>GMの最中、なぜ「間違ったエゴ」と呼ぶのかがすとんと落ちる感覚がありました。
>目の前にみずぼらしく佇んでいるそいつは、何をどう頑張ったところで、間違うことしかできない。
>その姿がありありと見えました。
>その直後に沸き起こった、「ごめんなさい」という感覚。
>ああ、これを「懺悔」というのだなと初めて知りました。

ここで述べられていることで素晴らしい点は、”すとんと落ちる感覚” というところです。

私が口を酸っぱくして言っている事の一つは、概念だけではだめだ、ということです。
単に頭で理解しても、それは頭だけです。
何の解決ももたらしません。

しかしながら、このようにすとんと落ちる感覚がある時は、それが見える時です。それが見えているとき、それがわかるのです。概念ではなく、あますところなくわかるのです。

こういう時は、頭がストップした状態で、「あぁぁ、なるほど」という感覚、なんだかわからないけど全身で理解できる、という全体としての理解を得るわけです。頭で理解するなら、それは一部分だけなのです。全体ではありません。あなたは全体なのですから、全体で知らなければいけません。

これはもう、あなたが体験を通して知らなければいけません。
ひとたびその体験をすれば、私が言っていることがわかりすぎるほどわかり、その感覚を愛さずにはいられなくなります。
従って、頭だけで理解していることの滑稽さがわかり、本当の意味での識別能力が戻ってくる、というわけです。

この方は、よってすでに聖なる識別能力を思い出した方です。
こうなるともう、何が本当で何が偽りかを自身で見抜けるようになっていきますので、自立し最低限のアドバイスだけでやっていけるようになっていきます。

その証拠に、彼女はすとんと落ちた感覚、間違ったエゴを間違ったものとして見抜いたがゆえに、「これが懺悔というんだな、と初めて知りました」

と書いているわけです。懺悔とはどのようなものなのか?
概念ではなく、直接その本質をつかんでしまったわけです。

このように幻想から離れて全体に帰っている時、このような直接理解がどんどんとやってくるようになります。そして、直接理解とは、幻想を幻想と見抜き、その価値を暴いてしまうものなのです。
だから、彼女はこうしてわかることがわかった、という証明をはっきりとここで記しているわけです。

そして、彼女の理解はさらに続いていきます…


>昨年後半はずっと、まわりの人の醜い部分がどうしようもなく目についてしまい、蔑まずにはいられない!という状態が続いていました。
>「こいつら、ほんとにバカじゃないの?」ってずっと思ってました。

これは後ほどゴールドクラスにて触れていくことになりますが、視力を回復したり、本当に自分自身の故郷を思い出し始めると、まず起こることは、世界のとてつもない美しさに気づくことです。

これについては、すでに言及していますが、とにかく何もかもにキラキラした輝きを知覚するようになっていきます。

ゴールドクラス 5 いのちを感じ始める

そして、この期間が過ぎると次には、彼女がここで書いているような感覚につきまとわれることになります。
光を見た後は、必ず闇を経験することになるのです。

この状態が何を現わしているかと言えば、一つには、人間性を超え、霊性あるいは、神性の領域に入り始めると、人間、すなわち間違ったエゴがいかに狂っているかが見えてきてしまうのです。

すでに何度も書いているように、彼女がゾンビで自分自身がゾンビだったときには、このことがまったくわかりませんでした。
なぜって、ゾンビになりきっていたから。

けれども、自分がゾンビであることに気づいた瞬間、彼女はそれを即座に退け、本来の状態に戻ったのです。しかしながら、彼女にまだ過去はかなり残っており、自分自身の記憶を通して、自分自身の夢の世界にいるゾンビたちを見てしまっている、というわけです。

また次に、彼女が指摘しているように、これは自分自身が作りだしてきた化け物との対峙である、ということです。
本来の光の領域、すなわち故郷に戻るには、わざと取り残されている闇の正体を暴かなければなりません。

それは自分自身が作りだしてきてしまった産物で、恐ろしく卑しいものたちなのです。

これがかぐや姫の物語がいわんとしていることです。

>それはまさに自分のことなのだと薄々気づいていたのですが、まだ逃げ道を残しておきたかった。
>人を批判する代わりに、自分の身だけは安全な場所に置いておきたかったんです。
>でも、間違っているのは私なんですよ。
>外にあって自分は関係ないと思っていたものは全部内側にあって、本当は外も内もないというか、自分しかいないんですよね。

>(ってこれ、理屈では全然わかっていないのですが、なぜかこういう言葉が出てくる)

>そういう理解が染みてきたときに、とめどなく湧き上がる他者への批判。はイコール全部自分のことで、そこにはただ汚泥にまみれた自分がいるばかり…という事実をますます誤魔化せなくなってしまいました。

>いやあ、ほんとにひどいですね〜。

>しぶといなー。醜くてしぶとい。最強です。

このように、この方はそれが非難されるべき他人ではなく、まさに自分自身の姿だとわかったのでした。

自分は関係ない、悪いのはあいつであって、私ではない。
ということには、絶対にならなく、まさしく私自身の写し鏡そのものだ。

ということを、ついに彼女は悟ったわけです。

これこそ、実は神が何より思い出してほしいことの一つなのです。

彼女は知らず知らずのうちに、それを実現しています。

ここで何がすごいかといえば、彼女は概念として理解しているのではなく、まさしく全体として理解している、という点です。
”見えている” のが、はっきりとわかります。

見えている時、それがあからさまに見えるので、疑うことはありません。
見えている時、それが明らかに見えるので、何を求められているか?どうすればいいかの対処法が誰にも教えられなくともわかります。

私がここで皆さんに伝えているのは、このように直接知ること、見えるようになるためです。

そうすれば、おのずとわかるからです。

彼女がここでいっていることは、霊性の大前提ですので、概念としてはありふれたものです。しかし、ほとんどすべての人は、それを概念としてしか知らないのです。

以前、ご紹介したお便りの方もそうですが、この方もまた、本当の意味での責任を取り始めた方です。

大いなる仕事、大いなる成果

そして、このように本当の意味でのけじめをつけようと歩き出した方こそ、あらゆる存在にとっての光になります。

当然、このような方々は、しかるべき階段を上がり続け、さらなる理解を得て、この夢を閉じて、立ち去ることになります。

以上になりますが、これは誰にとっても役に立つ内容ですし、何より励みになります。

皆さんが辿るプロセスは、この方と全て一致する必要はありませんし、それはそもそもできませんが、何が重要なのかのポイントは確認できるはずですし、それがそもそもここで取り上げた目的です。

私にとっても、非常に嬉しいお便りでした。
ありがとうございました。