経験的にわかったことは、個人、つまり自分だと思っている自分に確証は与えられない、ということです。
もっといえば、個人は個人自体で知る事は出来ません。

皆さんと話していてわかったことは、こういうことです。
全ての人は、頭だけでわかろうとしている、ということです。

誰もが、この失敗に、この罠にはまり込んでしまうのです。

「私は、そんなことはない」

と思っていても、だめです。

それほどまでに、誰もがこのミスをするのです。
誰もが、自分で考えて解決しようと罠にはまりつづけるのです。

その理由の一つは、私たちは小さい頃から、親にそういう風にしつけられてきたからです。
親だけではなく、学校などありとあらゆるものから、

「ちゃんと考えて!」

と教育されてきたから、催眠にかけられてきたからなのです。

ちゃんとしなきゃいけない。
考えて解決しなければいけない。

このように、小さい頃からそういう風に訓練されてきてしまっているがゆえに、
もはやそれを疑うことすら出来なくなってしまっています。

よって、自由を見出す際にも、個人としてアプローチしようとし続けます。

けれども、自由とは個人を超えている領域にあるものですので、どうやったって個人に知れるわけがないのです。

こういう理由から、まずは個人が個人として観られなければいけないわけです。
個人が個人として観られる、ということは、自分自身が個人ではない、ということを指し示しているからです。

そこに気づければ、観られる対象物としての個人の限界がようやくわかりはじめるからです。

それがわかりはじめればもう、対象物としての個人に頼ることが間違っていることにうっすらと気づき始めることにつながっていきます。

そうして初めて、真我、輝かしいものが現れる準備が整ってくるわけです。

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