前回、私は有名なマスター達が言っていることよりも、自分自身の経験をとった、ということを話しました。
ここで大事なことは、自分の考えをとった、のではなく、自分の経験をとった、というところです。
自分の考えほど、あてにならないものはありません。
なぜなら、自分が考えていることは、大抵誰かの借り物だからです。
誰かの借り物、つまり誰かが話したこと、誰かの概念、誰かのやり方、そういうものを盲目的に信じて採用し、それを何の疑問もなく、「これは、俺の考えだ」と言ってしまうのです。
日常の中で、観察者が個人以上に機能し始めると、自分が考えていることにうんざりし始めます。そして、自分が考えていることが、それはつまり知りもしない存在達からただ押し付けられてきたものだ、という事がわかり始めるので、信用しなくなるのです。
ですので、自分が考えている普通のことに価値を見出さなくなります。
これは、真我”が”実現するうえで、もっとも明らかな兆候です。
自分をまるで他人のように観察している状態が日常レベルで機能している、ということは個人の領域から外れていることを示唆しています。
それまで自分だと思っている自分がそこで機能していることを見るとき、そうであれば、あなたはいったい誰なのでしょうか?
その時、あなたは考えていません。
ただ、観ていることが起こりつづけています。
そうであれば、考えというのは、どれくらいの力を持っているのか?
わかると思います。
考えはどこで機能しているのか?その限界値、というのがここではっきりとわかってくるのです。
だからこそ、普通に考えることは私たちにとって、最悪なことだというのです。
もちろん、展開されている世界では、考えは賛美されています。
なぜなら、この領域は守られなければならなく、このレベルで機能するためには、考えることがスタンダードだからです。コントロールにとって、考えることは必須な条件なのです。
だから、私は自分の考えをとりませんでした。
直接経験をとったわけです。
直接的な経験は、思考を介していません。
思考の領域からはずれ、個人から外れた領域の経験を通したことだけを、
私は採用したのです。
個人的な通常の経験は、もちろん思考が支えになっているのであてになりません。
しかしながら、個人を超えたところでの経験こそ、私にとってはスタンダードとすべきものだったのです。
本を読んでいる時、それは通常のレベルでしか機能していません。
どんなマスターにせよ、それを本人から直接聞いたのでなく、誰かが訳したり、誰かが注釈したりするうちに、どんどん汚れていくのです。(本人たちは、汚す意図などないでしょうが)
ですので、通常のレベルで行われる諸行為は、対象物がどんなに高尚な内容であっても、それは完璧さを欠いているのです。
ですから、それらに頼るわけにはいかないのです。
超えたものこそ、私たちが求めているものであれば、超えたところで機能しなければいけません。それこそ、私たちが本当に拠り所にできるものです。
だからこそ、私は結果的に、通常の経験から得たものではなく、自分自身の経験をもとにしたものをとったのです。たとえ、誰が何と言おうと。
私は、決して自分の考えをとったのではないのです。
そこに、「俺なら」とか、「俺に言わせれば」とかはないのです。
ただただ、謙虚に自分自身の経験をとったのです。
似ているようですが、ここには天と地以上の決定的な違いがあるのですね。
ですので、皆さんに言えることは、巷で言われていること、伝統的に言われていることと、自分自身の経験が違う場合、自分自身を最優先させなければいけない、ということです。決して、自分の考え方ではありません。それは、偽りなのですから。
【レベル】:ゴールドクラス~ユニティクラス
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