さて。

先日、拘束の場所と自由の場所というタイトルの記事を書きましたが、今回は、もう少し補足をしておきたいと思います。

その後、結構質問や感想が来ましたので。

単に気分がよくなるため、ハイな感じや光や明るい感じを得たいがために、ワークショップやリトリートに参加していたりする。

このことは、多少なりともショックなことなのだと思います。
もしそのことにショックな感じがしたり、何かしらの動きを感じたのなら、それは注意していたほうがいい、ということです。

そこには、明らかに問題があるからです。
さて、あなたにとって、それはどんな問題なのでしょうか?

では、ここで、このことに関して、もう少し詳しく話してみようと思います。

私が問題だとするのは、自分自身、そのことに気づいていない、ということです。

そうです。
いつもこうやって、気づかない間に手段が目的化してしまい、何度も何度も騙されるのです。

ここで間違って欲しくないのは、何も楽しい事を否定しているわけではないのです。
逆に、辛い事や苦しい事を求めたほうがいい、と言っているわけでも、それを否定しているわけでもないのです。

楽しい事は、私たちの本性と合致します。

だから、私たちは必死に楽しい事を求めるのですが、楽しいことを求める事自体が間違っているのです。もうそこで、完全に道を外しているのです。

楽しいから、楽しいのです。
それだけです。

私自身、それほど多くはありませんが、ワークショップなどに参加して、実にそのようなたくさんの人を見てきました。

当時、私はそれでも、ニューエイジなどに関しては初心者だと思っており、たくさんの”先輩”がいるのだから、そういう人たちの在り方や発言には耳を傾けていました。

「私よりたくさんの事を知っているはずだし、たくさんの経験をしているのだから、先輩の話は聞かなければいけない。いくら眠っていることが見えていても。」

バリバリの体育会系で育ったため、こういう思い込みをしていたのですね。

いかに自分が育った環境が非常に多くの問題を創り出すのか?
そのいい例です。
私は、自分自身が見ているもの、知っているものよりも、外側からの強制をまだ採用していたのです。

さて、しかしながら、実は、そんなことはなかったのです。
私が、最初に感じたことは、最後まで変わりませんでした。

大多数の人が、ただ自分の惨めさや苦々しさをどうにかしたい、というそれだけのために、このようなものに参加しているのです。

もちろん、自分の境遇を変えたい、今のこの苦しみに終止符を打ちたい、ということは間違っていません。
けれども、その先がないと、それを超えているものがないといけないのです。

そうでないと、また違う苦しい状況がやってくるだけだからです。
そうすると、また何か違う新しい救済ーそれは新しいワークショップだったり、新しいワークだったり、新しい方法論、概念だったりーを求めて、さ迷い歩くことになってしまいます。

それは、ゾンビと一緒です。

ですので、私がわかることは、本当に重要な事は、自分が一体何を求めているのか?
それを具体的にはっきりと知って、つかんで離さない事です。

そうしないと、間違ったエゴは隙を盗んで、すぐにそれを捨て去り、手段を目的化してしまうのです。

その罠にひっかからない人、というのは、ワークショップやなにやらに、楽しみは求めていません。辛さも求めていません。

ただ、真剣なのです。

全ては、自分自身が何を求めているのかを知っているから、それにそぐわないものであれば、即座に捨て去るでしょうし、逆に、楽しくワクワクするものではなくても、必要とわかれば、そこに全身全霊で取り組んでいくものです。

重要な事は、外側ではなく、内側なのです。

外側がどうあろうと、どのような形をとっていようと、自分自身の内側の薔薇にフォーカスし続ける事なのです。

そして、それが出来る人は、本当に少ないのです。

ですので、私が皆さんに伝えたい事は、いかに簡単に騙されるのか?
だからこそ、慎重に冷静に謙虚に素直に、そして時には大胆に自分自身と伴に在ってほしいと伝えているのです。

私がわかった限りでは、これが鍵だからです。

そしてこの鍵は、何度も繰り返しますが、新しい鍵ではありません。
ずっとずっと伝え続けられているものなのです。

【レベル】:ゴールドクラス~ユニティクラス