発見者は皆、モデルケースを探しているのであって、そのモデルとなるのが、ラマナ・マハルシだったり、ニサルガダッタ・マハラジだったり、クリシュナ・ムルティだったりします。

彼らの言葉に耳を傾け、自分との相違点を探し出し、いつかは彼らの境地に辿りつけるように進んでいくわけです。

ギブアップの会をしている中でわかったのですが、全く同じ感想と言うか、憧れのようなものを持って、私の所に来られる方々がいらっしゃいます。

年齢も性別もばらばらで、顔見知りでもないのでしょうが、面白い事に彼らは同じことを私に語りかけます。

この同じ感想を持つ方が本当に多くいらっしゃるようなので、ここで言及したいと思います。

彼らが話す対象は、プンジャジであり、もう少し具体的に言えば、プンジャジに起こった事に対して、熱を持ってよく話されます。

プンジャジについては、ここで話すまでもないでしょう。
言わば、誰もが知っている有名人ですから。

さて、では、彼らはプンジャジの何について話すのでしょうか?

それは、プンジャジが初めて(?)ラマナ・マハルシに出会った時についてです。

確かプンジャジがラマナと初めて出会ったとき、彼はラマナの眼差しを通して、いわゆる霊的な変性を体験しました。

そして、次に出会ったとき、またもや彼はラマナの眼差しによって、直接体験を通して、知る事を知りました。

さて、多くの方が、この体験に憧れを抱くようです。
つまり簡単に言えば、マスター、聖者の一瞥によって、霊的探求の終焉、悟りというものを体験したい、ということです。

しかし、ここにはいくつかの注意点があります。

まず、そのうちの一つは、私が分かる限り、プンジャジは、何もラマナの一瞥によって、完全に覚醒したわけではない、ということです。

私自身も彼から話を聞いたわけでもないので、本に書いてあることを鵜呑みには出来ません。

ただ、本のとおりならば、彼が本当にわかったのは、もっとずっと後だった、ということです。

もし彼が本当に実現そのものになっていたのなら、ラマナについて、必要以上に何も想うことはないはずだからです。

彼はラマナと出会ったあと、ラマナの元を離れたくなかった、と書いてあります。
何があっても、ラマナのもとにいたいようでした。
なぜなら、彼はラマナを愛していたからでしょう。

ですので、その後、ラマナに家族を助けに行くように、言わば強制的に退場させられてしまった、と確か、そう記述してあったと思います。

さて、ではここで言っている事は、何でしょうか?

それは、執着です。
ラマナへの執着です。それは、決して愛ではありません。

私が分かる限り、完全に実現してしまえば、このような執着はなくなってしまうのです。
外側、それがたとえ、とてつもないマスター、ここではたとえばラマナ・マハルシであろうと、誰であろうと、そのようなものは、必要なくなってしまうのです。

ラマナにしてみれば、これは面倒でしかなかったはずです。
間違いなく、そう言えます。

ですので、ラマナは、プンジャジ自身で見出すように追い出してしまった、というわけです。
ラマナから見れば、プンジャジにはまだ、仕事が残っていたのです。
それは、確実でした。
なぜなら、彼は人間的な執着におぼれていたのですから。

こういうわけで、プンジャジは、ラマナの元を離れて、自分自身でそれをわからなければならなかった、これが私がわかることです。

このような体験は、ある種、ロマンチックに聞こえてしまい、うっかり人間的なそれに置き換えられてしまいがちになります。

私たちがここで勘違いしてはならないのは、それは十分ではなかった、ということです。
もし十分であれば、すぐにでも、自らラマナの元を離れてしまったはずだからです。
彼がまだわかっていない、マスターしきれていない執着があったわけです。

さて。
では、もう一つの問題点は、何でしょうか?

最初に書いたように、読んでいる側からすれば、デフォルメして捉えがちになる、ということです。

読んでいる側は、いつもイメージです。

ですので、その自分というイメージから、これを解釈してしまうと、かなりやっかいなことが起こってきます。

それは、いつもそのようなものを探してしまう、ということです。

当人にあまりに印象が強すぎると、無意識的にそのような聖者や状況を探して求めてしまう、ということです。

その結果、何が起こるかと言えば…

「あの人は、違う」
「この人も、違う」
「この方法も違う」
「あの方法も違う」
「あの概念も違う」
「この概念も違う」

という終わりのない苦しみの旅をし続ける、探し続ける事になる、ということです。

いつもいつも、ラマナがプンジャジにしたような眼差しをあちこちに求めてしまうのです。

私が彼らの目を見ると、いつも、

「眼差し、眼差し、まなざし、マナザシ」

とそれがいっぱい書いてあるのが、わかります。

このような方の頭には、期待でいっぱいです。
期待をしてはいけない、と読んでいるはずなのですが。

私たちが理解しなければいけないことは、プンジャジは、何も眼差しに期待などしていなかった、ということです。

間違いなく、彼は沈黙の眼差しによって、自分がわかるなんて思いもしていなかったはずなのです。

ここが、プンジャジと彼に憧れる人たちの決定的な違いです。

ですので、こういう本で仕入れた体験といったものは、往々にして非常に障害になるわけです。

次に、三つ目の注意点を見ていきましょう。

三つ目は、依存です。

二つ目で言及したように、既にマスターに期待してしまっているのです。

ですので、どんな本を読んでも、ワークショップに出かけても、いつもそのようなものを探すことになります。

「いつか、誰かが現れるはずだ」

このような期待感を持ちながら、探すはめになるのです。

そこで発見者が見落としているのは、発見者自体の質、レベルです。

もし発見者が、「私は何もしなくていい。全ては偉大なるマスターが現れて、私の問題全てを解決してくれるから」

そう考えているのなら、それはかなり間違っている、ということです。

それは、「自分でやりたくないから、マスター、全部やっといてね」
という霊的な無茶ぶりなのです。

無茶ぶりすぎます。
それは、あまりにも幼い態度です。人間そのものです。

もしマスターが一瞥しただけで全ての人が覚醒できるのなら、マスターはあらゆる人の重荷を簡単に解消できたはずなのです。
でも、そうではありません。

このような簡単な質問が重要です。

それはつまり、自分自身の幼稚さ、動物性といった全ての障害物、重荷をいかに自身でマスターしていくか?ということなのです。

先に書いたように、ラマナ・マハルシは、プンジャジだけに特別な眼差しをしたわけではありません。そんなこと、すぐにわかります。

ラマナは、誰にでも同じように自分自身を見ていたはずなのです。

その同等の眼差しを、準備が出来たプンジャジは、見事に受け取った、ということなのですね。

そうでなければ、ラマナの周りにいた全ての人たちに覚醒が起こってしかるべきで、実際、そうではありませんでした。

この話の要点は、プンジャジは、自分自身の幼稚さや動物性のほとんどをマスターしていた、ラマナの教えを受け取れるほど成熟した存在になっていた、ということです。

ですので、プンジャジに起こった事を自分に期待するのではなく、憧れるのではなく、まずあなた自身をマスターしなければいけない、成熟しなければいけないのです。

【レベル】:ゴールドクラス~クリアクラス