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私たちは、今いる所が正解である、という点です。
彼女の例からわかるように、たまたま、偶然、農薬関係の会社で働くことになったわけではないのです。

なぜそこにいるのか?
それは、絵の中に入り込んでしまっているがゆえに、何が起こっているのか?
気づきません。見えません。
しかしながら、意味もなく、そこで働いていることはないのです。

もっと深く、そして高い理由があって、そこにいるのです。

ですので、何も彼女が特例だというわけではなく、疑いなく、私たちもまたそうなのです。
どんな状況にいようが、それは偶然そこにいるわけではなく、何かを体験し、気づき、完了させたいからそこにいるのです。

だからこそ、他人を裁いてはいけない、安易に判断してはいけない、と言われているのです。
この方は、どうしてその会社で働くことになったのか?
そのグランドピクチャーが当時、見えていませんでした。

自分自身、そんなレベルなのに、どうして他人が本当は何をしているのか?
スピリットの段階で何を望んでいるのか、わかるというのでしょうか?
表面的にしたあれやこれやは、一見、確かに問題だったり、悪事だったりするかもしれません。
けれども、それを当人が何のためにやっているのか?
グランドピクチャーの中で、どんな役割を担っているのか?

それは、見えないのです。
なぜなら、誰もが自分だと思っている自分に眠っているからです。

だからこそ、自分が何なのかが見えないのに、他人をあーだこーだと決め付けてしまうことが、どれほど危ないことなのか?
私たちは、いつもその誘惑にかられますが、それをしてはいけない、ということは、こういう理由からなのです。

もちろん、目に映る外側の世界は、裁きます。
というか、裁きしかしません。

近所のおばちゃん達や職場の同僚は、常にこれをしています。
「ねぇ、一緒に裁こうよ」と甘い誘惑をもちかけてきます。
ですが、あなたはしてはいけないのです。
他人がやっているから、自分はしてもいい、というわけにはいかないのです。
これが、最も辛い試練の”一つ”です。

では、次に二点目について見ていきましょう。
二点目は、この部分です。

>この授業は私が自分に起こしたのだとすぐにわかりました。
ここに、あの一点の疑いの余地もない完全なる叡智があるのがおわかりになるでしょうか。

すぐさま
わかる

のです。
つまり、気づくときは、一瞬で事足りるのです。

これこそ、です。

重要な点は、その授業を受けている中で、そのことに気づける、ということは、すでにその自分を含めて、完全に観察している、ということなのです。

これは、自分を離していなければ起こらないことです。
観察者、観照者の状態になっているからこそ、わかることなのです。

彼女はその時点で気づかなかったかもしれませんが、その時、自分が見ている景色が今までの馴染みのあるものではなく、風景のように、まさしく映像のように見えていたはずなのです。

このように、状況について、彼女のように ”すぐさま見える” ようになること。
これが、私たちが目指さなければいけないレベルです。
とはいえ、これが最上位ではなく、もっと上のレベルがあるのですが
(更にとはいえ、実在にはレベルなんてものはありません。この矛盾を抱えながら、それでも上昇していくプロセスにどうしてもあるのです)

そして、見える状況がすぐさま自分が引き起こしたのだとわかる、ということは何を意味しているでしょうか?

それは、自分が人生の犠牲者ではない、被害者ではない。

ということを意味しているのです。

その見えない因果関係に気づくこと、原因と結果について気づくようになることで、人生は、誰のせいでも、誰が悪いのでもなく、自分で引き起こし続けているものなんだ、ということがわかるのです。

この方がレポートして下さったことは、非常にわかりやすく、良い実例です。

みなさんも、彼女と同様に自分の人生、というよりもっとはっきりと言ってしまえば、日常のあれやこれやについて、このような見え方にならなければいけない、ということです。

(つづく…)

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