このタイトルを見て、「お前は、いったい何様のつもりだ?」と思う方もいらっしゃるかと思います。
現に、かつて私自身がそう感じたのですから、そういう風に思うのが、むしろ普通でしょう。
とはいえ、私が言えることは、タイトル通りのことなのです。奇妙なことに。
一見、すごく傲慢な”物”言いだと思います。
けれども、私が言える限り、これが事実である、ということです。
このことに一番初めに気づいたのは、最初の目覚めが起こって、数か月後のことです。
私が世界にどんな影響を与えているのか?
それを初めて、見た、のです。
この見ることが起こって、すぐに私は、
「おいおいおい、のぼせ上がるのもいい加減にしようぜ」と自分をたしなめました。
最初の目覚めが起こり、かつて存在していたであろう自分というものがなくなってしまい、見るもの全てが輝きの中にあって、私はもしかしたら、自分でも気づかないうちに自惚れていたのではないか?そう思ったのです。
しかしながら、これはかなりショッキングな出来事でした。
これまで、世界に振り回されるのが私であって、その逆であるとは思ったことすらなかったからです。
とはいえ、この見ることは、あまりに決定的でした。
それは、私が自分がいったい何者なのか?という事実をあまりにも的確に描写していたのです。
ですから、「いやー。確かにそうかもしれないけど。ともかく、大げさに考えすぎだな。そんな馬鹿な事があるはずがない。でも…。でも、ひょっとしたらひょっとして。」
という風に、ひょっとして。。。
という可能性がやけに引っ掛かり、自分の思い過ごしであると即座に却下できないでいました。
その後、その見えることは、幾度となく、私にやってきたのです。
何度も何度も。
あらゆる経験を通して、それを多角的に見る機会を与えられた、と言ってもいいかもしれません。
一度や二度なら退けられる”考え”として扱っていたかもしれませんが、こう幾度となく見ることが起こることによって、”いつの間にか”疑念よりも確信に近い認識に到達していました。
そして、ついに、私である存在が現れたことが、あまりにも決定的な体験となり、気づけば、それは、つまり、全ては私にかかっている、ということは、ごくごく当たり前の事実になっていたのです。
たぶん、これを読んでいる皆さんは、たくさんの疑念があるでしょう。
でも、私はすでにそれを知っているのです。
そして、それを証明するどんな手立ても有効ではないでしょう。
疑問が疑問を呼び、いつまでたっても、あちら側の理解にはたどり着けないでしょう。
しかしながら、いつか、あなたもそれを見ることが起こる瞬間がやってきます。
そうしたとき、私が言っていることが、ほんの少しわかるでしょう。
そして、この文章とつながったあなたは、その後ほどなくすれば、それが事実であることをすんなり受け入れられるようになるはずです。
はい。
全ては、私にかかっているのです。
そして、だからこそ、私は何が必要であって、何が必要でないのか?
知っています。
なぜって、全ては私にかかっているから。
これで、円が完結します。
では、今回は、この辺で。