実現してしまう人は、それがないのです。
もちろん、そういう人だって猜疑心を前提にして生きているのです。
しかしながら、その瞬間、一瞬だけでも心が開く事が起こればいいのです
それだけで、繋がりが回復するのです。
その実績が次の実績に繋がっていくようになるのです。
けれども、全く実現しない人、何年何十年何百年経っても何の進歩も遂げない人は、その一瞬でさえ、明け渡せないのです。
なぜって、怖いから。
その一瞬が命取りになると、そう本気で信じているからです。
外側に安心できるものなんて、何もない。
そう信じて疑いません。
それは、確かにその通りです。
ですが、悲しいかな、そう信じているのに、何度も何度も外側に探しに出かけて行き、そして裏切られ、という終わる事のない無限ループに入り続けていることもまた、事実なのです。
これは、地獄、というものです。
なぜなら、解決がないから。
けれども、実現する人は、心が開く事が起こり、わかるようになる、ということなのです。
たぶん、クラスなどに参加していて飛躍的な進歩をされる方は、参加している時、何が心を開くことなのか?ということに意識的には気づいていないはずです。ここが、みそのようです。
なぜなら、疑う事が既に自然となってしまっていることと同様、心が開くことも、あまりにも自然だからです。
ですので、自分で「よし!心を開こう」と無理矢理開いたつもりになっても、自然ではないので、実現しないのです。
つまり、ここで自分だと思っている自分の意図は使えない、ということを意味しています。
ただ、このような態度を持つことは、常に猜疑心にさいなまれている態度よりはるかにはるかに好ましい状態です。
拒否しようとするより受け入れていこうという態度を持つことは、次第に扉が開くことに繋がっていきます。ただ、問題は時間がかかるため、その間におきまりの奴に屈服して、またもや裏切られたような気分になり、元の猜疑心の状態に戻ってしまう可能性もある、ということです。それは、間違いなくよくあることです。
この点をしっかりと忘れないでおくことが、最も肝心だと言えます。
さて。
ここで、心を開く事がいかに決定的か?という事例を見てみましょう。
登場するのは、ニサルガダッタ・マハラジです。
(…というか、このことは何度も取り上げている気がするので、重複しているかもしれませんが、とにかくしつこくフォーカスします。)
彼は、典型的なその例です。
私の記憶が間違っていなければ、確か彼は、あまり気分がのらないまま、友人に半ば強引に、グルの所に連れて行かれたのではないでしょうか。
しかしながら、そこで彼が体験したことは、まさしく決定的だったのです。
彼は、グルから確かこう告げられたのではないでしょうか。
(つづく…)
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