今回、ご紹介する方は、目覚めの時 Ⅰでご紹介させていただいた方の登場です。
☆お便りから ~ 目覚めの時 Ⅰ ~
マスタークラスの第1段階(1-1,1-2)を終えた後、さらにどのような変化が起こったのか?
それをメールにてレポートして下さいました。
ですので、みなさんと一緒にこれから見ていきたいと思います。
…略
今日は自転車で出掛けました。
ふと生きてる事に気が付きました!
何だか込み上げてくるものがあって
泣き笑いしながらペダルをこぎました。
いつもよりずっと、生きていました!
いつもよりずっと、景色が鮮やかでした。
そしてそしてそして気がついたら、戻ってました( .. )
でも、何かが変わってきています。
…略
今日は自転車で出掛けました。
ふと生きてる事に気が付きました!
何だか込み上げてくるものがあって
泣き笑いしながらペダルをこぎました。
いつもよりずっと、生きていました!
いつもよりずっと、景色が鮮やかでした。
そしてそしてそして気がついたら、戻ってました( .. )
でも、何かが変わってきています。
…略
そうです。
今までだって生きていたんです。
でも、突如、生きていることに気づくのです。
これは、一体、どういうことでしょうか?
今までだって生きていたのに、だったら、それまでは生きていることに気づかなかった、とでもいうのでしょうか?
答えは、yesです。
この方がここで仰っているのは、今まで知らなかった何者かに気づいたわけです。
つまり、それが生きている、ということに。
この瞬間まで、この方は、自分だと思っている自分しか見えなかったのです。
こういうと、非常にばかにした言い方になってしまい申し訳ないのですが、でも、そうでなければ、こういう書き方にはならないからです。(もちろん、ばかにしているつもりも毛頭ありません)
それに気がつき、それ自身の目で見たからこそ、
>いつもよりずっと、生きていました!
>いつもよりずっと、景色が鮮やかでした。
という視野が回復したのです。
つまり、肉眼、自分だと思っている自分の体の目で見ているのではなく、本当の見る事が起こった、というわけです。
この見え方によって、心がどこに還ればいいのかがわかります。
それが思い出されることになるのです。
なぜなら、それは今までと全然違う見え方であり、肉眼では到底達することの出来ない世界だからです。
これこそが、概念ではなく、内側の体験として知る、という典型的な例です。
皆さんの中でこのメッセージを読んで、この方のような体験をしていないのでしたら、これは朗報以外のなにものでもありません。
なぜなら、あなたもこの方のような体験、概念ではなく、直接体験を通して知る、ということが出来ることを示唆してくれているからです。
疑いなく、あなたが求めていることは、これなのです。
このような体験をレポートとしてメール下さり、本当にありがとうございます。