ある意味、ラッキーなのは、精霊の訪問にあっても、なかったことに出来る人です。
たとえば、毛色はちょっと違いますが、ローズレッドで出てくるミラー教授のような存在です。

「あー、見てないぞ」「私は、見ていない」「これは、現実じゃないんだ」「私は、絶対に信じないぞ」

それはまさしく臆病丸出しの人間ですが、それでもなかったことにできる能力は、恐らく、私達からすれば、憧れる在り方かもしれません。

また、まるで反対のやり方で、橋を壊される場合もあります。
それは、私が観察した限りでは、そのことに全く気づけないからです。

精霊の訪問があっても、なかったことにするのではなくて、気づけない人です。
それが意味するところは、現実に非常に深く眠り込んでしまっている、ということです。

そういう人には、精霊はまったく別の様相で近づき、取り込んでいきます。

破産、離婚などといった、とてつもない災難が降りかかってきます。
そこで初めて、「もう耐えられない。どこにも逃げ場がない。何をしても無駄じゃないか」

などという怒りや本当の絶望感から、自分が頼りにしてきた現実に裏切られた感覚から、一瞬、背を向けるのです。

そこで初めて、より大いなるものに心を開き、橋を壊すのです。

これが最初に起こることです。

そして、プロセスを歩み始めれば始めるほど、もう元の世界、元の仕事環境で働くことが出来なくなってしまうのです。

なぜなら、その次に起こることは、周囲の人間関係にうんざりしはじめるからです。自ら体験し、理解したことは、このせまっくるしい世界観、世界を支えている信念がとんでもなく、くだらないものにしか思えなくなったりします。

そうなると、それを信じ切って疑う事すらしない周囲の人間などを見て、不思議に思い、つぎに非難したり、ばかにしたり、見下したり、もうわかりあえない。といったような態度に変化します。

もちろん、人をけなしたり、見下したりするのは、そもそも間違っています。それは分離を示していて、本質からはずれていますが、これは仕方ないことのように思えます。

それまで、当然だと思ってきたことが当然ではなく、もっとすばらしい世界、すばらしい生き方ができるはずなのに、誰もそれに向かおうとしないのは、一体どういうことなんだ!?といぶかるのは、仕方ないことのように思えます。

問題は、そこにいたれる人があまりに少ないため、当人にアドバイスできるような存在がいない、ということです。

そういう在り方が行き詰り過ぎると、いわゆるダークサイドに簡単に落っこちてしまうのです。あるいは、懸命に世界を救おうとしようとしてしまうのです。

以上のように、以前のように仕事によって生活すること、仕事をし続けて行く事ができなくなる原因は、現実の基準が壊されてしまう、ということになります。

壊されたものを元に戻そうとあがいても、もう決して元通りになりません。
あちこちが隙間だらけになっています。

「前のように、働けなくなってしまった」

というのは、こういう理由からなのです。
そして、それは個人にとっては、災難以外の何ものでもありませんが、真我、神にとっては、逆に祝福すべき事なのです。

こういったように、個人、人間と真我の価値基準が全く異なっているため、その”狭間にいるように見える”私たちにとっては、うろたえるばかりになってしまうのです。

はっきりしていることは、ひとたび、還る事、戻る事が決定されたのなら、再び合一するというボタンが押されたのなら、自分を拘束しているあらゆるものを脱ぎ捨てていくはめになる、ということです。

私にとってふさわしくないものは、徹底的に削除されていくでしょう。
合一の場所、真我とは澄み切ったところです。そこには、汚れというものは許されないのです。汚れがある以上、それは汚れがある場所で機能しなければいけない、ということを示します。

よって、まず徹底的に汚れを落としきらなければいけない、ということになり、これが浄化の旅ともいえるものです。そして、仕事を失う、というのは、そのうちの、典型的な事象なのです。

(つづく…)

【レベル】:ホワイトクラス~ユニティクラス