原因をはっきりと表に出して、正直に向き合う、ということが、何よりも求められるのです。そのために、ここでこうして洗いざらい出してしまおう、ということをやります。
☆常に疑う
「全然、何も起きない」と嘆いたり、苛立つ人は往々にして、常に何に対しても、疑いが先に来てしまう人です。
いえ、往々にして、ではなく全て、です。
何もこれは、批判しているのではなく、私が観てきたままの事です。
そして、私自身もかなり疑うプラグラムを持っていました。
疑いを持つことは、確かに重要です。
ですが、これが肝心かなめな所では障害になります。
それも重度の障害をもたらします。
「本当かなぁ~」
何を見ても、何を聞いても、いつもそれが本当かどうかを疑ってしまうのです。
科学は、様々なアプローチを通して、それが本当かどうかを確かめるツールなのかもしれません。
けれど、そういう態度が成長をとてつもなく遅々とさせてしまい、挙句の果ては、反対方向に進んでしまうのです。
☆”でも” ”けれども” ”もし”
疑いばかりが先行する人は、「でも、これこれなら、どうなんでしょう?」
「けれども、~ではないんですか?」
「もし、~なら、~ではないのでしょうか?」
が口癖になっています。
何をどう言われようと、これが先に来てしまいます。
突き刺さるような事を言われて、「ハッ」としたにも関わらず、それ以上の速さで、
「でも」 「だって」 「もし」 「ほんとうは」 「けれど」
が現れ(間違ったエゴ)、それに負けてしまうのです。
ですので、まんま受け取れず、疑って自分流に解釈しようとすることで、何も進展しない、という結果にいたります。
それで、こんなに努力しているのに何にも変わらない。
だから、俺が悪いんじゃない。あいつが悪いんだ。
というおきまりの状態、すなわち被害者として人生を、いつの間にか、歩んでしまうことにつながります。
そして、当然、まさか自分が被害者になっているとは気づけないのです。
これは、ゾンビがゾンビであることに気づけない事と同じ構図です。
疑うことは、重要です。
けれども、何をもとに疑うのかで、結果が全く違ってくるのです。
愛だから疑うのか?
不安だから疑うのか?
愛から疑うとき、それは偽物を偽物として見たい、という動機があります。
反対に、不安から疑うのは、実在は見たくなく、偽物を実在と思い続けたい、という隠れた動機があるのです。
☆怖いから
ではなぜ、このように、何につけ、「でも、だって、けれど」というように、疑いの目で見てしまうようになるのでしょうか?その理由は、不安だからです。
不安だから怖いのです。
恐れているわけです。
だから、疑ってしまいます。
あまりにも不安である事がデフォルトになってしまっていて、何が助けなのか?まったくわからなくなってしまっているのです。
それは、パニックです。
パニックを起こしている人に、落ち着け、といっても無駄です。
不安で不安で仕方なく、安心を与えてくれるものなんて、この世にはないと、実は気づかないうちに思っているのです。それは、ある意味当たっていますが、そうではないのです。
だから、安心を与えてくれそうなどんなものも、疑ってしまうのです。
(つづく…)