そのクラスにおいて、私が皆さんに必ずお伝えすることとして、目覚めた後のことについてがあります。
つまり、目覚めると、どうなっちゃうのか?
ということです。
あくまで私がこれまで観察してきた限りですと、目覚めた人とそうでない人というのは、はっきりとした違いが見えるのです。
そして、目覚めた人、思い出した人は、日常生活が変わってしまったことについて、必ず言及するのです。
特に、私が話を振らなくとも、こんな風になるなんてびっくり、というような口調でお話されるのです。
こういうわけで、私は皆さんに、目覚めることは、単なる概念でも、一過性的な体験でもなく、在り方のベースそのものを上げてしまう体験であるとお伝えしている次第です。つまり、それは人間性から霊性、神性への移行なわけです。
以上のことから、目覚めた後、どういう日常になるかが、私たちの着目ポイントになるわけです。実際のクラスにおいては、私自身の例を引き合いに出して説明しています。
そこで、遠隔地に住んでいらっしゃり、なかなか参加できない方もいると思いますので、Web講義として、今回は、目覚めが起こった後、私自身に何が起きたのかの一例を共有したいと思います。
私自身の例で言えば、目覚めを通り抜けた後、数え切れないほどのイベントが起きたわけですが、その中の一つとして、ある状態になっていることに私は気づきました。
それは、
退屈だ、という感覚が根こそぎなくなっていた。
ということです。
これは、目覚めの体験のずっと後に気づいたことです。
たぶん、一年ぐらい経った後か、もっと後になってかもしれませんが、
突然、、、
「あれっ? 暇だ、とか、退屈とか、つまらないという感覚がないぞ!!」
と突然気づいたのです。
あの感覚がすっかりなくなっていたのです。
なくなっていることに気づかないまま、ずっと過ごしていたのです。
疑いなく、物心(要注意!!!)に取り憑かれて以降、私は、事あるごとに、この退屈な感覚、暇な感覚に悩まされてきました。
小学生の夏休みの時、やることがなくなって、友達もみんな旅行に行ってしまって、誰とも遊べない時、どうしようもなく暇でした。
楽しい事をしたくても、全然出来ない。
そして、そういう嫌な想いをしたくないために、あらゆる楽しみを必死で作り出そうとしていたのです。
その結果、TVゲームとかが生まれたわけです。
誰とも遊べなくても、一人で遊べて、暇をもてあませるから。
好きだから、それをやるのと、
暇を恐れて、退屈なことを恐れて、つまらないことを恐れて、逃避のために、それをするのとでは、全く意味合いどころか、生き方、在り方が違ってしまいます。
好きだから、旅行をするのと、
暇なのを恐れて、退屈な事を恐れて、つまらないことを恐れて、逃避のために、旅行をするのとでは、全然違うことは、誰にでもわかると思います。
あるいは、世間の評判を気にして、休日に旅行に行っとかないと、どんな目で見られるかわからないから、と恐れて旅行をする人だっているのではないでしょうか。それは、あまりにも悲惨な生き方です。実際、私はそうした経験がありますが、全くもって不毛なことでした。
もう二度と、こんなことをするもんか!
と固く決意した事を覚えています。
というわけで、それまでの私の日常では、そういう退屈な想いを避けて生きていた部分があるのですが、目覚めが起こって以降、すっかりとそのような感覚がなくなっていたことに気づいたのです。
本当にびっくりしたのは、何もしていなくとも、退屈だ、という想いに蹂躙されることがなかったことです。
何をしていようと、あるいは、何もしていなくとも、なぜか充実しているのです。今までなら、何かをしている時は、確かに退屈だとは思いませんでしたが、何もする事がなかったなら、たとえば休日に何の予定も立てていないとしたら、間違いなく、「やべー。暇だ。なんかしなきゃ」となっていたはずなのです。
けれども、目覚めが起こって以降、そういう想い自体が現れる事がなくなっていたのです。あるいは、そういう想いが現れたとしても、私に影響を与えることがなくなっていたようなのです。
なぜなら、私は、既に充実していたからです。
何もしていなくとも。何もしていないように見えても。
既に充実していたがゆえに、自分が充実していることすら気づけなかったのです。
これは、本質的な、単なる事実なわけですが、当時の私にとっては、とにかく新しい発見だったわけです。
このように、目覚めること、思い出すことが一体何をもたらすのか?
どのように人を変えていくのか?
ということがわかると思います。
そして、私がこれまで経験してわかった限りで言えば、神は、一なる存在は、暇をもてあましているわけではない、ということです。
神は、退屈さにうんざりしているわけではなかったのです。
神は、「やべー、暇だ。なんかしなきゃ。
ダメ人間ならぬ、ダメ神になっちゃうぜ。」
といって、無駄な行為に明け暮れているわけではないからです。
それは、ご自身の意志ではないことが、今ではよくわかります。
ですから、私もまた、神である、ということを本当に思い出せば、神と同じような状態になってしかるべきなのです。
いえ、そうなっていないと、いまだ神と距離があり、思い出したい単なる人間の一人、となっているだけに過ぎない、ということになってしまいます。
神は退屈を知りません。
よって、あなたが神であるなら、あなたもまた、退屈を知りません。
という簡単な事実に、あなたは気づいた事がありますでしょうか?
あなたは、ここでハッと気づくことができたでしょうか?
こういうことに気づいていくことが、私たちのプロセスであり仕事です。
ですので、クラスでは、こういう些細なことに思えるかもしれないけど、ほぼ誰も気づいていないことを皆さんと共有しています。
もちろん、クラスだけでなく、このテキストでもクラスとその質を変えることなく、皆さんにお伝えしたい次第です。
ですから、
私もまた、神である
ということを思い出すことは、途方もない大イベントなのです。
いいでしょうか。
ギブアップの会には、アドヴァイタに関心をお持ちの方もよく参加されますが、そういう方も、こういったことを体験していく必要があると、私は思っています。
非二元、つまり一なる存在しかないのなら、退屈であることなんて、知らないはずなのです。
であるなら、あなたの日常は一体どうなっているのでしょうか?
アドヴァイタをマスターするとは、つまりこういうことの積み重ねなのです。
それは、他のスピリチュアルな道と、実はなんら変わりはありません。
ゴールは、常に同じなのです。
どのルートからでも山の頂上には辿り着くはずです。
こういうわけで、目覚め、思い出すという体験、あるいは経験を通して、あなたはどうなっていくのか?ということがわかってくると思います。
今回は、目覚めることによって、日常がどうなっていくのか?
という一例をあげてみましたが、今後も、出来るだけ私自身に起こったことを共有しようと思います。
【レベル】:ゴールドクラス
- 投稿タグ
- アドヴァイタ