・教えがもたらす結末

現在、私はこのようにギブアップの会なるものを運営し、直接にワークショップを開き、私が経験してわかったことを伝えています。

けれども、ずっと前まで、私は、こういうことを人に伝えることが本当に嫌でたまりませんでした。

なぜ嫌でたまらなかったかといえば、私が伝えていることは、一体どういうことを意味するのか?私は、もちろん、それを知っていました。
聞いている人に何を伝えているのかは、明白であり、また伝えることによって、相手に何が起こるのか?それが明白だったからです。

私がわかったことを伝えることは、言ってみれば、相手に死刑を宣告するよりひどいことを言っているということだったのです。

当時から私は、概念だけを話すことには、まったく興味はありませんでした。
自分が経験してきたこと、直接わかったことだけを伝えたかったのですが、それは、ぜんぜん素敵な話ではなかったのです。

この道を進んでいくことによって、どういうことが起こるのか?
それは、個人を消滅に導くことなのです。

その道中、あなたに関係するあらゆるものを失うはめになるのです。
まず物質的なもの、次に精神的なもの、最後に自分だと思っている自分。

・世界のルールと自由のルール

この世界は、一貫して、”得る”ことを前提に進んでいます。
食べ物を得て、パートナーを得て、子供を得て、家を得て、あれこれを得て…。

得ることで、人は、エゴは満足するのです。

しかしながら、この悟りの道、解脱の道、自由への道、世界を超えていく道を突き詰めていくと、皮肉なことしか起こらないのです。

得るのではなく、どんどん失っていくのです。

これには、私は参りました。
道中、どれほどうんざりしたか、数え切れないほどです。

そして、こんなものを人に教える価値なんてない、ということはすぐにわかりました。なにしろ、奈落の底への招待状を渡すわけですから。

こんな危険極まりない道をあえて教えるなんて、私にはとても出来そうにありませんでした。
それは、いってみれば詐欺のようにしか感じなかったのです。

もちろん、「オレがこれだけ苦しんだのだから、お前も苦しめ」
というおなじみの奴が軸にあるのなら、喜んで人をだまして、同じ目にあわせることもできたでしょう。
けれども、そういうおなじみの奴がもう機能不全を起こしているので、そういうことも出来ません。

従って、この類の話は、他人にしないでおこう。
と私は、ずっと決めていたのです。
他人をあえて危険な目にあわせる必要もありませんし、彼らは彼らで十分幸せなのですから。たとえ個人として眠っていても。

・重大な勘違い

そして、時が経ち、直接体験をした後、私は重大な勘違いをしていたことに気づいたのです。

それは、私が教えようが教えまいが、知ろうと思っている人は、勝手に失っていく。 ということでした。もっと言えば、誰もかれもが失っていくのです。それに気づいていないだけだったのです。
全ては、脚本しだいなのですから、より積極的に失うべき人は、失うのです。
私が教えようが教えまいが、関係なかったのです。
それはもう、ほんとうにどうしようもないことだったのです。

もし当時、私に「私が教えられることは、あれこれを失うから、こんなもの、やめといたほうがいいよ」と教えてくれる人がいても、100%私は、助言を受けながらも、進んでしまっていたことでしょう。

それは、明らかでした。
それは、止められないものでした。
方向転換できないものだったのです。

なぜなら、私には(最終的には、誰にもですが)そういう脚本が書かれていて、そう進むしかなかったのですから。

・おなじみの二つの思い込みとそれが何をもたらすか

つまり、以前の私は、くだらないことで頭を悩まし、行動を差し控え、自分をただ苦しめていただけだったのです。

この悩みは、結局、

  • 自分が他人に影響を与えることが出来ると思っている。
  • 自分には意思があり、選択権がある
  • という思い込みから来るものでした。

    この二つの思い込みは、間違ったエゴを動かしている原動力です。
    この原動力が完全になくならない限り、個人としての幻想を生き続けることになります。

    そして、直接体験によって、その原動力がなくなることもまた、全ては脚本によるのです。

    わかってからというもの、私は本当にどうでもいい心配をしていたのだと、つくづくあきれてしまいました。

    以後、私はいつも、来る人々に、こう聞くのです。

    「あなたは、こういうことを自分で知りたくて、始めたんですか?」と。

    そうすると、誰も彼もが、「いや、そんなことはない。気づいたら、こういう道に入っていたんです!止めたくても、止められないんです!」って答えるのです。

    私は、微笑みます。
    「ええ、そうでしょうとも」

    くどいようですが、この私の勘違いは、非常に良い例です。

    この例からわかることは、あなたが自分が悟っているとかいないとか、あと何が足りないんだとか。何をどれくらいやればいいんだとか。

    そういうことを気にしても、意味のないことだ、ということなんです。
    そのような欲望や心配、考え全ては、ただあなたを余計に苦しめているだけだ、ということなのです。

    そしてもっと皮肉なことは、そのように心配したりすることもまた、あなたにはどうしようもなかった、ということです。

    ですので、出来るならば、全てを受け入れるか、あるいは全てを諦めてください。それは、どちらも同じことです!ですが、これまたあなたにそれはできないのですが。なぜなら、それは起こることだからです。

    このメッセージによって、気づきが輝き、あなたに触れれば何よりです!!!

    【レベル】:ユニティクラス
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