さて。

今回もまた、目覚める人、あるいは目覚めに近い人の特徴を記していこうと思います。

目覚める人、あるいは目覚めに近い人は、一般的にいってルールやマニュアル、規則への適応能力が著しく低い、という特徴があげられるかもしれません。

「かもしれない」というのは、統計をとったわけでもなく、いわばこの世界の決まりごと的なw、明確な根拠があるわけでもないからです。

それでも、私は引き続き記していこうと思います。
なぜって、そんなもの、待ってはいられないからです。

繰り返しになりますが、たぶん…
ですが、たぶん目覚める人やそこに近い人は、社会の決まりごと、ルール、マニュアルといったものへの適応能力が著しく低いといった特徴があるのではないかと思います。

この世界は、常にルールで機能しています。
ですから、もう幼稚園や小学校といったところから、この刷り込み作業は始まっているのですが、この者たちは、よりわかっているため、そこに適応できないのです。

ですから、勉強の成績が著しく悪いといったことは、自然な成り行きなため、目覚める者、目覚めに近い者は、勉強が出来ない人が多いと思います。

なぜそうかと言えば、彼らはいわゆる眠った者たちが機能しているレベルに落とすことができないからです。
そもそも、なんでこんなことをやっているのかさえ、理解出来ません。
ですから、まずそれが理解できないので、それを理解しようとして、肝心の勉強に行き着かないのです。

彼らのスタンダードである勉強は、基本的にルールです。
徹底的にルールを覚えて行く事が基本になります。
時計の見方も、単にルールです。

私自身、読み書きやらこういった時計の見方について、親がびっくりするぐらい理解出来ませんでした。そもそも、なんでこういうことをやっているのかに疑問がいってしまっていて、短針と長針、秒針というようなものを理解するまで全くいきませんでした。

つまり、この世界に全く馴染んでいなかったわけです。

実現する者、実現に近い者は、この世界に馴染む事は出来ないのです。

ですから、逆に言えば、眠った者は、この世界に馴染みきっているため、この世界のルールにすばやく適応出来るのです。
勉強や仕事への適応は、相対的に見て早く優秀であると言えます。

よって、目覚める者、目覚めに近い者は、適応能力はまず遅く、それほど優秀さを発揮できないと言えます。
つまり、会社に入っても、出世とは程遠い人生になる可能性が非常に高いわけです。その会社の流儀、仕事のやり方に適応するのに、ものすごく苦労するはずです。

たとえば、会社によって、電話の出方一つにものすごく決め事を作っていたりします。こういう一つ一つの決め事に順応していく、それに沿った振る舞いを習得していくのは、他の人以上に骨が折れる事になります。

こういう間違ったエゴが作り出した常識に沿って生きる事は、目覚める者、目覚めに近い者にとっては、苦痛以外のなにものでもありません。

ですから、眠った普通の人と較べると、その何倍も疲れることになります。

眠った者は、往々にしてこのような社会の決まりごと、ルール、マニュアル、常識について、もちろん最初はぎこちないかもしれませんが、普通に適応できるのです。
ですから、目覚める者からみたら、その理解力の早さ、飲み込みの早さは驚愕の一言だったりするわけです。

また、眠った者は、物やシステム、あるいはロジックへの理解力が目覚める者と較べて非常に早いということがあげられます。

眠った者は、いのちを忘れているので、間違ったエゴが作り上げた世界の中の機能については、すぐに理解できるのです。
一方、目覚める者、目覚めに近い者は、その逆なため、とんでもない苦労をしていくことになるのです。

では、なぜ目覚める者、目覚めに近い者は、ルールやマニュアル、規則、システムといったものに順応することができないのでしょうか?

ルールとは、制限以外のなにものでもありません。
マニュアルとは、制限以外のなにものでもありません。

しかし、いのちは無制限です。

目覚める者は、制限を極度に嫌います。
制限とは、いわば檻なのです。

目覚める者は、自由を愛しているがゆえに、檻の中にいたいとは思わないのです。

ですから、目覚める者は、この世界に適応することにかなりの難があるわけです。

これが、その理由になります。

再び自由を取り戻すことが目的であるのに、檻の中の事を積極的に理解したいとは思わないからなのです。

また、彼ら眠った者は、この世界についてのルールを小さいものから大きいものまでどんどんと作り上げて、複雑にしていきます。
”複雑” にするのです。

いのちは、簡単でシンプルです。
けれども、間違ったエゴはこのことについて承服しかね、複雑さこそ、自分自身の神性さの証としているため、とにかく複雑にするのです。

ですから、目覚める者、目覚めに近い者は、シンプルさについて行こうとするため、その複雑さを理解できないのです。
一方、眠った者は、複雑さについていこうとするため、いとも簡単にそれに順応していってしまうのです。

こうしたことから、目覚める者、目覚めに近い者は、この世界で”普通”にはやっていけないのです。

ですが、このことについて、この事の真相について、間違ったエゴは最も嫌います。
当たり前ですが、間違ったエゴはせっかく作り上げた、この張りぼての世界を壊されたくないわけです。ですから、順応できない者について、その本当の理由を明かす事はありません。

誰もこのことを知りませんし、知りたいとも思いませんし、知ったところで、それを変えようとは思いません。
ですから、世界の中において、あなたに救いはありません。

ただ、なぜかわからず、このサイトにやってきて、なぜかわからず、最も深い所で共鳴することがあなたに起こっているのなら、なぜこんなにも人生が苦しいのか?普通にやっていけないのか?

といったことが今までより少しは理解でき、役立つことでしょう。

以上、目覚める者、目覚めに近い者についての特徴の一つをみてきましたが、ここでそれが必ずしも全員にあてはまるわけではない例をみてみたいと思います。

たとえば、ラメッシ・バルセカールは、そのいい例かもしれません。
彼の人生を事細かに見て来たわけではないので、なんともいえませんが、彼は確か、銀行の頭取にまでなった、というようなことを読んだ記憶があります。

そうなると、この説明と反することが起こっているわけですが、私が言える事は、彼にとっては、そればベストだった、ということです。

彼は、そのような論理の道、いわゆる理性の道を突き進んだことによって、とてもわかりやすく、実在への道を語ることになったわけです。

ニサルガダッタ・マハラジのもとで学び、彼が言わんとしていて、けれどほとんど誰も理解出来なかったことを、ラメッシは、彼特有のロジックで語ってくれました。それは、間違ったエゴとして機能している私たち、常にロジックが優先される世界で生きる(適応力が低くてもそれに馴らされているため)私たちにとって、非常に明快でわかりやすい説明として表現されたわけです。

いわば、彼はそのために人生を捧げた、ということができます。

それが、彼の”機能”だったわけです。

私がわかることは、こういうことです。

ただ、このような例はあるにせよ、しかしデフォルトは、この通りだと私は認識しています。

なぜなら、ニサルガダッタ・マハラジはどうでしょうか?
ラマナ・マハルシはどうでしょうか?

彼らは、ビジネスの世界でうまくやれたと思うでしょうか?
彼らは、この世界のルールにいち早く対応でき、会社に入ってもすぐにあらゆるルールを習得し、あっという間に出世できたでしょうか?

もちろん、仕事をする能力はピカ一なはずです。
なぜって、愛から仕事をするからです。

でも、利益が損失とワンセットになっている世界では、彼らは決してそこに安住する事はなかったでしょう。

あるいは、イエス・キリストはどうだったでしょうか?

彼がもし現代にいるとしたら、率先して会社の中でしゃかりきに働いていたでしょうか?仏陀は、どうだったでしょうか?

そうやってみると、事の全体像が見えてくるのではないでしょうか?

あなたが、もし今、社会の中で普通に生きれない、平均的な社会人の人生を送れていない、としても、こうやってみれば、それは至極当たり前のことではないでしょうか?

あなたの道は、決して間違ってはないのです。

なぜなら、それは、あなたが本当に求めているものが、そうさせているからです。