どれだけ座禅したか?どれだけ修業したか?
どれだけあれこれをしたか?

苦しい嫌なことをやりながら、何かを達成しようとするのです。

そして、もしその結果、何かを成し遂げれば、その人は努力を通して、そこに到達したわけです。

私が観てきた限りで言えば、そういう人は、自分が成し遂げたことに執着するのです。

「私は、あれこれを頑張ってやりつづけた。努力し続けた」

つまり、もしその人の前に誰かがいたら、到達した基準は、努力したか否かになります。

そうなると、あのおきまりの「お前は、努力が足りない」というフレーズがここでも出てくることになります。

その人は、努力を通したわけですから、人に対して、当然のようにあれこれと努力を強いるでしょうし、うまくいかないのであれば、努力不足というレッテルを貼りつづけることになります。

しかしながら、これは非常に受け入れやすいものなのです。
なぜなら、誰もかれもが努力という催眠にかかっているのですから、努力が全てで、だめなら、自分の努力が足りなかったとまたしても、自分を責めればいいだけの話ですから。

わかりやすい指標なのですね。

しかしながら、本質的な事には、何も触れていません。

なぜなら、実在とは、一大原理とは、努力とは無縁のところにあるからです。

自分のものにできる物なんて、何一つないのです。
何もかもが幻想なのですから。

その幻想に対して、どうして努力しなければいけないのでしょうか?
逆に、努力することで、幻想を強化し、見えなくしてしまうのです。

(つづく…)

【レベル】:ゴールドクラス~ユニティクラス