・全部神ならば…

私もまた、神である。という理解は、繰り返しますが、この無関心という在り方に
終止符を打つでしょう。

彼も私も同じ神なのに、どちらがすごい神ではなく、同じものなのであるなら、
彼をもし傷つけることは、では自分を傷つけることではないか?

空き缶を投げ捨てるのは、空き缶もまた神であるのなら、私は自分を投げ捨てていることになるのではないか?

このように、あらゆる瞬間に、そのような疑問が浮かび始め、自らの本当の目的へと向かい、歩を進めはじめることにつながり、あらゆる分離や分断というドラマの終焉をもたらすことになるのです。

・静かに日常で実践する

もちろん、このメッセージを読んでいる方にそんな方はいないでしょうが、だからといって、確かに無関心さが問題だとわかったからといって、走って世界を救おうとしてはいけない、ということです。

まず、私もまた、神である。という理解を日常で実践して、それが本当かどうかを確かめることが肝要です。

そうして初めて、自らが輝きだし、あらゆる存在への無言なる助けを行い始めるのです。
あなたは、それを知っていくでしょう。

私もまた、神である。

という理解を日常で実践していくことは、私自身の経験から、とてつもなく重要であり、これがマスターされていないと先に進む事はできないでしょう。

繰り返しますが、この理解がなぜ重要かといえば、自分自身の人生を意識的にとらえ始めることになるからです。
今までも、意識的だったというかもしれませんが、実際は違います。

やってみれば、すぐにわかります。

・普通の生き方

この理解は、一瞬一瞬の鮮烈さを求められるからです。

今までは、恐らく遠い将来に照らし合わせて、自分の行動を決めるだけだったのではないでしょうか?

あれこれになりたい。
だから、こういう道のり、こういうことを学んでいこう。

こういう医者になりたい。
だから、医学部に入って、勉強して、臨床を積んで云々。

ビジネスで成功したい。
だから、あれこれの大学を出て、有名な企業に入ってビジネススキルを磨こう。
そして、ゆくゆくは云々。

大抵は、ある未来の一時を目的地点にして、そこまでのプロセスを一歩一歩、歩んでいくというのが、おそらく模範的な人生なのではないでしょうか?
私が観てきた世界は、こういう世界でした。

ただ、そのターゲットは、現時点とかなり距離があるので、その間の瞬間瞬間の在り方は、大して重要ではありません。
要は、結果が出ればいいわけで、プロセスはある意味、重要ではないのです。

どれだけ愚痴を言おうが、悪口を言おうが、不親切であろうが、問題ありません。
結果が出ればいいのです。
逆に、どれだけそういうことに気を付けて生きていこうが、結果が出なければ、失格という烙印を押されるのがこの世界ですから、やはりプロセスは、全く問題ではないのです。

・これが私なのか?

けれども、この私も、また神であるという理解を実践していくことは、こういう生き方を捨てる、ということを意味します。

いかにプロセス、つまり一瞬一瞬を揺るぎのないものにしていくか?
一瞬一瞬を最高な状態で生きていくか?ということが重要になってくるのです。

『神との対話』にあるように、実践者は常に、「これが私なのか?」と問わなければならないのです。
これを自分自身に問えば、すぐに答えがわかります。
奇妙なことに、「それは違う」という答えがやってきて、求められている在り方に疲弊してくることもあります。しかしながら、一体誰が、疲弊するのでしょうか?

(つづく…)

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