・神なんて信じない

また、こういうばかばかしい信念体系があるのを見て、世界のばかばかしさ、愚かさが演じられているのを見て、神など信じない、という人もいるでしょう。

それは、至極もっともです。
当たり前です。見れば、明らかにばかげています。
ちょっと調べただけで、とりあう価値がないことはすぐにわかります。
かくいう私がそうでした。

そういうわけで、神なんて信じない、という理解のもと、生きている人々もいます。

それは、確かにもっともで催眠にかからないだけの強さをもっている方々ですが、彼らをもってしても、どうしても理解できないことも実際に起こっているのです。

まさしく、神の仕業としか思えないことが起こるとき、その理由を彼らは説明できません。何かとてつもない働きがあったとき、それは誰の説明を受けずとも、わかるものです。

神を信じている方々は、結論を導き出しやすいですが、神を信じていない方々は、どうにも説明できません。

神を信じていない人々は、大抵現実的と考えられている科学や法律といったものを重視する傾向にあるようですが、とてつもない事象に対して、科学的な知識でアプローチしても、結局は、推測にしかなりません。
何度も言っているように、推測は最終的に毒なのです。

こういうわけで、無神論者もまた、限界を持っています。
盲目さから一見、逃れているようですが。
残念ながら、信じる/信じないの反対的立場をとっただけになってしまっています。

・神とは全部じゃないのか?

どこかにいる神も、どこにもいない神も今のところ、どちらも役に立たないようです。

そもそも神がいない場所や、いない時などというものがあるのでしょうか?
渋谷にはいて、新宿にはいない。そんなことがあるのでしょうか?

そうやって疑問に思えば、すぐにでも神とは全部ではないか?
という直感的な答えが導き出せるかもしれません。

もし神が全てなら、神が全部であるなら、私はその全部の中の一部であるのだから、私もまた、神になってしまう。

私もまた、神である。というものは、もちろん概念です。
ただ、あなたにとって、それはどういう感覚をもたらしますか?

それが一番大切です。

あなたの中の一番奥深いところで、揺さぶられる何かを感じられますか?

これは概念ではありますが、私が見る限り、最も可能性を感じる概念です。

・無関心という破壊的な在り方

あらゆる人が、私もまた、神である。ということを受け入れたのなら、人生は、とてつもなく責任を生じることになるからです。

私もまた神なら、すべての人もまた、神であることになります。
人だけでなく、あらゆるものもまた、神になってしまいます。

必然的にこういう理解が生じ始めることが意味するのは、自分が次にする行為がはたして、神らしいものなのか?

という疑問を生じさせるからです。

こういうわけで、私もまた、神である。という理解は、無関心という在り方を止めることにつながります。

今までは、個人として自分が思う自分にしか関心がありませんでした。
けれども、ひとたび私もまた、神である、という生き方をとりはじめたのなら、
あらゆるものへの関心につながることになります。

この理解がない限り、本当には私もまた、神である、という理解に至ったとは言えません。

私もまた、神である。という理解は、無関心という破壊的な在り方を終わらすことができるのです。

・無関心がいかに問題を引き起こすか

私が観る限り、世界の問題の大半は、人がびっくりするほど無関心によることが大きいということです。

あの車が欲しい、彼が欲しい、彼女が欲しい、
あれを食べたい、これを食べたい、成功したい、やりたい。

ともかく人が関心があるのは、自分とつながりのあることに限定されています。
自分とつながりのないものへの関心は、極端なほどなくなります。

無関心は、冷たさにつながります。
無関心な人は、冷たい人なのです。
冷たさは、固さを生じさせます。

冷たい人は、よって非常に固い人なのです。
それは、もう病的なほど自分が思う自分に固定されてしまっていることを意味します。

病気になるのは、大抵自分の体への無関心さから始まります。
無関心は冷たさを意味し、冷たいものは、固さを生じさせ、凝固します。
体を運営しているあらゆるシステムが動かなくなっていくわけです。

そのお酒を、体が欲しいと言っているのでしょうか?
誰がお酒が飲みたいと言っているのでしょうか?
誰がそれを飲んで満足するのでしょうか?

翌日二日酔いになるのは、はたして体からのサンキューという返事なのでしょうか?

胃はそれを欲しいと言っているのでしょうか?

腎臓がちゃんとした栄養素が欲しいというシグナルを出すのは、もう耐えきれなくなったときなのではないでしょうか?

私たちは、体からの痛みという信号をキャッチして初めて、自分がやりすぎたことを知ります。
いえ、それでもなんで病気になったのか?と疑うほど、人は無関心だということです。

無関心は、冷たいのです。
見て見ぬ振りほど、冷たい態度はない、ということを私たちはよく知っているはずです。

私はこれまで、たくさんの人と接してきましたが、家族を含め、いかに無関心さが問題を創りだしているか、はっきりと見てきました。

もし自分が思う自分と切り離したところで関心さを持つことができたのなら、世界の問題の大半は、なくなってしまうでしょう。

(つづく…)

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