・幻想のドラマ

けれども、私たちはここで、それが本当の本当なのかを確かめなければいけません。
なぜ、分離していると思い込んでいるのか?
それは、本当なのか?
本当なら、なぜ本当なのか?

こんな簡単なことすら、全く気づけないのです。
私は幼いころから、ずっとみんな気づいていると思っていました。
気づいていて、わかっていて、もっと何か壮大な目的のために、あえてこういう世界を築いているのだと思っていました。

しかしながら、人類は、全然気づいていません。
人が、自分自身に気づける、ということがこんなにも難しいとは全くわかりませんでした。
つい最近になって、私はやっとそれがわかったのです。

もちろん、これは人が、人類が、間違ったエゴが、社会が、世界が悪いわけではありません。
世界は、そういう進行モードをとっているのです。それは、そういう風にできているのです。
そういう大きな脚本のもと、進行しているだけなのです。
重要な事は、その大きな脚本を書いているのが誰なのか?
それを見破る事なのです。それがあなたの仕事なのです。

ですので、このまさしく地獄という幻想のドラマは、脚本に従って続いていくでしょう。

・あなたがあなたを救い出す

地獄は、どこか遠いところや何かのきっかけで起こるのではありません。
今ここで、すでに起こっているのです。

同時に、天国もどこか遠いところにあるのではありません。
今ここで、すでに実現しているのです。

私もまた、神である。という理解は、この幻想に終止符を打てるものです。
なぜなら、分離ではなく全体だから。
この理解は、分離という幻想のゲームを終わらせます。

もちろん、世界はこのままです。
大切なことは、この不毛な世界、延々と同じことを繰り返す無限ループの世界から、奇妙なことにあなたがあなたを救い出さなければいけません。

その為の非常に有効なツールが、私もまた、神である。
という理解なのです。

なぜでしょうか?
何度も繰り返しますが、、この分離という幻想を終わらすからです。
この理解によって、本当に人生に責任を持ち始めるようになるからです。

それまでは、まさしく眠っていた人生でした。

けれども、この理解とともに人生を進めていくとき、そこには、いままでまったく触れることが不可能だった責任感が生じ始めるのです。

・信じられている神を調査する

さて、私もまた、神である。
という前に、私たちが一般的に信じている神とは、どのようなものでしょうか?

私には、宗教的なバックボーンがありませんから、詳しくはわかりません。

ただ、世界を観察する限りで言えば、間違いなく神というものは、人間とは違うものだ、という風に信じられているようです。

神というものは、ともかくどこかに存在していて、人間が出来ないことをも可能にしてしまうスーパーな存在である。

私が観察した限りでは、大抵こんな感じでした。

人は、たとえばすごいことがあると、何でも神を引き合いに出すようです。

「神のようだ」 「まじ神だ。」

あるいは、とても人間が対処できないことが起こると、すぐに祈ったり、願ったりします。

祈る対象や、願う対象がどこかにいるわけではないのに、ともかくこういう行動を起こします。

・矛盾していても、気にしない

幽霊やUFOというものは、見えないものだから信じない、根拠やエビデンスがないものは価値がない。というような信念が普及しているかと思いきや、お正月やお盆になると、神社などにいってお参りをしたり、先祖というもういないもの、見ることも触れることもできないものへの儀式のようなことを行います。

鐘を鳴らして、手を叩くことに何の根拠があるのでしょうか?
手を合わせて祈ったところで、一体誰が聞いているのでしょうか?

全く首尾一貫した行動をしてないのに、ある部分において、エゴである私たちは、頑なに自分たちの信念を一貫して守ろうとします。

一方で執拗なほど根拠を求め、ある時になると、まるでそんなもの関係ないかのように振る舞う。まったくばかばかしいにもほどがある行動をとっているのですが、なにせエゴですから、気づけません。

くどいようですが私は、つい最近まで、みんな冗談でこういうことをやっているのだと思っていました。
社会的なジョークでこういう生き方を採用していて、いざとなれば、すぐにでも、

「冗談でした~。さて、問題が行き詰り過ぎたので、これを解決しちゃいましょう」

というのかと本気で思っていました。

しかしながら、全然違っていました。
本当にわかっていないのです。気づけないのです。
自分たちが完全に常軌を逸してるほど、矛盾した信念を採用していることに全く気づけません。まさしく眠っていて、集団催眠にかかっているのですから、自分たち自体に気づけないのです。

最近人々を観ていてわかったことは、人は気づかないのではない、ということです。
気づかないのではなくて、気づけないのです。
これは、気づきは、超えている。というテーマで書いてますので、ご覧ください。

催眠にかかっているとき、人は自分で目を覚ますことはできないようです。
他のもののきっかけによって、たとえば催眠をかけた人が合図しなければ、催眠がほどけないのです。

こういうわけで、人は自ら起きることは出来ない、自ら気づくことは出来ないのです。

こうなると全員気づくことはできないのですが、そうならないように、目を覚ますことを脚本に書かれた存在が、メッセンジャーや聖者として現れたりするのです。
このような方々がなぜか突然現れて、「目を覚ますときですよ」というのです。

そして、残念ながら眠っていようが、目を覚ましていようが、この枠組みすべてがドラマですので、大した意味がありません。
なぜこんなドラマを始めたのか、誰にもわからないのです。

(つづく…)

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